A級戦犯と呼ばれる人をどう考えるべきでしょうか。勿論、東京裁判で死刑を宣告された戦争犯罪は、日本の軍国主義の犠牲になったアジアの2千万人の人を思うとき、ゆるがせにできない重い決定です。私はそれを問題にしようとしているのではありません。しかし、私は、東京裁判のように、結果から過去を批判するだけでなく、同じ日本人として、せめて内在的主体的に批判してあげたい、そこまでは譲歩して歩み寄る、これを拒否するなら、初めから靖国派との対話の余地は存在しないでしょう。私は、靖国派とも、お互い相手を否定するだけでなく、かみ合った議論をしたいのです。そのかみ合う場所の一つがここではないか、そう思っております。では、内在的主体的な批判とは、どのような批判でしょうか。
私たちは、歴史的人物も含めて、誰しも、歴史的制約を持つのであり、その制約のもとで、一生懸命生きております。そして、その人の判断力もまた、歴史的制約(歴史的限界)の内にある以上、その限界を超えた場合には、対外的には許されなくても、同胞としては、悲劇として「理解」してあげる場面があるかもしれません。(仮にA級戦犯が、自分の祖父であったなら、そうした気持ちになるでしょう)それは身内として、ひいき目でものを見るということではありません。歴史的限界の外かどうか、は、歴史学を根拠とした客観的判断で、主観は関係ないのです。だから、アジアの2千万の犠牲者を前にしても、恥ずかしくない判断のはずです。(続く)
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