2020年1月18日土曜日

国民の戦争責任

護憲派の論理では、侵略戦争の加害者は、一部の支配者達で、大多数の国民は、天皇崇拝を刷り込まれ、報道の自由を奪われたなかで、知る自由も、言論の自由もなく、抑圧されだまされた側であり、加害者ではない、その手は汚れていない、となっております。そうでしょうか。

私は、こうした白黒二分論は信じられません。同じ国民であり、同じ時代の空気を吸っていた、多くの人は白でも黒でもなく、多かれ少なかれグレーであったと考えるべきではないでしょうか。そうしてこそ、「私たち日本人は、いつどこで誤ったのだろう」ということをみんなで考えることができるのだと思います。そんな中で、祖父が「実は俺も南京で女性をレイプしたし、子供を殺した」とか、「慰安婦は軍があっせんしていた、靖国派の言っていることは嘘だ、俺がその証人だ」などの、涙ながらの懺悔や告白や告発も生まれるというものです。

今の、「国民は悪くない論」の中では、こうした告白は到底言い出せないでしょう。南京で人を殺した兵士には、深い後悔や罪悪感と共に、「あの場面で、上官の命令に従う以外、どういう選択肢があったんだ」等多くの弁明もあるでしょう。かれらは、靖国派と護憲派が論争するなかで、何もいいだすことができないで、苦しんでいるのではないでしょうか。この人たちこそ誰よりも発言すべき人達です。
しかし、戦争の責任を明確にすることを急ぐあまり、国民は一方的被害者であるかのような、現在の議論枠組みのなかでは、南京で虐殺に加担した下級兵士は沈黙を続けざるをえないでしょう。
本音の話合いを許容する雰囲気が必要です。そして率直な議論をすることで、初めて歴史の教訓がうまれるのではないでしょうか。あるいは、主体的自発的な戦争責任論が、自然にうまれるのではないでしょうか。


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