2019年12月31日火曜日

さよなら2019年

今年ももう少しで終わりです。西向きの部屋から丹沢が見えますが、快晴の空を降下してきた太陽は、今まさに沈み、今年の終わりを告げようとしています。

私は、今年1月と昨年7月立て続け二人の兄妹に先立たれました。生者は、時間という乗り物にのったまま新年を迎え前に進みますが、死者の時間は止まったままです。だから、新年とと共に、今年の死は、昨年の死となり、昨年の死は一昨年と、少しづつ過去の存在になります。

時間と共に、少しずつ過去になってゆく、それは避けられない生と死の別れの一つの現れなのでしょう。ふと、銀河鉄道の夜を思い出しました。あの銀河鉄道でも、死者達は電車を下車して、生者を乗せた列車は大空をどんどん前に進みます。あの列車のように私たちは、時間という乗り物にのって、否応なく未来という駅に向かって、猛スピードで突進しています。もう少しで、さよなら2019年。

2019年12月29日日曜日

強権国家同士の団結


28日の報道によると、国連総会で、ロシア提案による、サイバー犯罪に関する決議が、79-60で、採択されたそうです。サイバー犯罪の防止は喫緊の課題だし、一見良いことのように見えます。しかし、技術的なことはわかりませんが、人権活動家グループは、サイバーテロに乗じた、表現の自由の圧迫を危惧しているといいます。詳しい対策手順は、20208月にニューヨークで検討されるそうですから、しっかり議論してほしいと思います。

私が、この記事に注目したのは、実は別のことにあります。このロシアの提案に対し、賛成国と反対国を並べてみます。

賛成国 ロシア、中国、インド、ベラルーシ、カザフスタン、シリア、エジプト、北朝鮮などの79か国
反対国 米国、フランス、ドイツ、英国、カナダ、ウクライナを含む60か国

ここで、賛成国には、強権的な国家が多いし、賛成多数だったということは、ここに出ていないアフリカ等にも、賛成国が多かったのだろうと、想像できます。

今まで、国連は、アジアや中南米、アフリカ等独立国が増えたおかげで、核や気候変動などで、大国の横暴をチェックする、頼もしい役目を果たしつつあります。しかし、こうした開発途上国の中には強権政治の国も少なくありません。そうした国々が、中国やロシアの主導のもと団結して、国連の場で、強権的手法を世界に広める一大勢力になったとしたら!考えるだけでも恐ろしい、しかし、ありえないことではない、今回の一件は警告なのかもしれません。

2019年12月27日金曜日

豊かさの高い代償

スーパーやコンビニには、驚くほど多種類の食べ物や商品が並んでいます。よくこんなに管理できるな、と感心します。しかも、それらの数は時々刻々減ってゆきます。それを、過不足なく補充する、その補充のもとをたどると、世界のサプライチェーンまで広がるのです。そして、それを支えるために、輸送システムと情報システムがあります。時間や人件費の無駄を最小化するため、血のにじむ工夫努力が求められます。こうして達成される高い効率、これこそが、他社との競争に打ち勝つコストダウンの秘密です。

昔、チャップリンの映画で、モダンタイムズという映画がりました。そこでは、ベルトコンベアで、流れ作業の労働の場面があります。次第に、ベルトの速度が速くなり、作業する労働者は、それに合わせなくてはなりません。一人がしくじると、作業がストップして、みんなに迷惑がかかるので、みんな必死です。今の日本の「便利」という豊かさの陰では、見えないベルトコンベヤーが、流れていて、労働者も、家族も学生も、みんな、その高速な速さにあわせようと、きりきり舞いしているのではないでしょうか。

私たちは、豊かさや低価格を求めるうちに、いつの間にか高い代償を払わされてはいないでしょうか。現在、脱プラスチックの運動が広がっていますが、いずれ、脱「便利」の時代がやってくるのではないでしょうか。

2019年12月26日木曜日

ゆとりのない日本人

台湾に一週間程、滞在型の旅行した人から、台湾の生活がのんびりしていてよかったという話を聞きました。言い換えると、日本はせかせかして余裕がありません。そんな日本の異常さを私は、以前にブログで書きました。⇒人間がこわい その時は、その原因がわかりませんでした。

しかし、数日前、テレビのNHK番組「東京リボーン」を見ていて、原因の一端がわかった気がします。日本の高度で便利な消費生活は、綱渡りのような精密マシーン、世界サプライチェーンによって支えられているのです。

例えば、コンビニのおにぎりは、まずチリの養殖場で作られた均等に切られた鮭の切り身の巨大パックが、タイに運ばれ、そこでは、巨大な工場で、鮭のおにぎりが作られます。それらは、きれいに包装され、東京港に運ばれます。すると、そこには、コンテナ運搬のトラックが待っていて、それに積まれ、東京その他に、運搬されます。こうした連携プレーが、世界的規模で、寸分隙なく、行われます。そうすることで、大量生産、大量運搬が、実現されます。
昔は大量生産とは車など、高コスト商品でした。しかし、鮭おにぎりのような、ちっぽけなものまで、それができているのです。(続く)

2019年12月24日火曜日

クリスマスが静かだ

先週、サンデーモーニング司会の関口氏が、今年は、例年に比べ、クリスマスの商戦が静かだといってました。そういわれると、私の周囲でも、確かにそうです。まず、ジングルベルの歌をほとんど聞きません。今日夕方街を通りましたが、いつもならコンビニの店外に売り子さんが立って、ケーキを売っている光景がありませんし、店内も静かです。さすがに、ケーキ屋さんでは、列ができていましたが。今朝の朝7時のニュースでも、クリスマスは話題になってませんでした。

この異変はなんだ!帰りの道すがら、ずっとこのことを考えてしまいました。次は、私が勝手に考えた異変の理由です。生活が豊かで多様になり、毎日様々なイベントがあります。スポーツ、芸能、映画等々、クリスマスも、唯一のビッグイベントでなくなり、選択肢の一つになってしまった。しかし、小さい子供のいる家庭や子供にとっては、ビッグイベントでしょう。しかし、クリスマスの楽しみ方も、豪華なケーキというのは、一つのオプションにすぎず、予算配分や栄養バランスを考えて、様々な御馳走に重点を置くとか、要するに、自分流のやり方をアレンジするようになっているのではないでしょうか。それに加えて、高齢者、一人暮らし、共働き世帯が増えて、相対的に、クリスマスを楽しむ人口割合も、減少していると思います。

誰もが同じものを消費する大量生産の時代は終わり、それぞれが自分の好みを選ぶ豊かな時代になりつつあるのだとすれば、それはいいことだと思います。

2019年12月22日日曜日

民営化は善か

簡保生命が、多くの年寄りを騙して勧誘したとして、問題になりました。郵政民営化によって、利益追求が優先された結果です。公共事業だった時代、郵便局は、地域コミュニティのインフラとして、重要な役割をもっていることは、郵政民営化の大論争の当時から指摘されていました。営利会社になって、営業成績を上げるため、局員は厳しいノルマを押し付けられ、良心を捨てる競争を強いられました。民営化は、働く人間も、地域も不幸にしました。

かつて、民営化が盛んに推進された時代、なんでも民営化がいいように言われましたが、今、その反省や総括をする時ではないでしょうか。ヨーロッパでも、様々な民営化した事業が、再公営化していると聞きます。例えば、フランスでは、民営化した水道事業が、パリ、グルノーブル、ニース等100か所以上で、再公営化しているということです。ノルウェーでは、民間ごみ処理企業の経営破綻が、137自治体で起き、民営化は安価でも効率的でもなかったという結果を生んでます。

住民の福利サービスは、本来的に、金を度外視するからサービスなのであり、儲けと両立できないものではないでしょうか。

2019年12月21日土曜日

低軌道人工衛星

低軌道の人工衛星が、これから通信その他、大いに活躍する時代が来るといいます。すでに、イーロン・マスク氏のスペースX社は、一万個の衛星打ち上げを目指し、相当数打ち上げているといいます。世界中で、こうしたことをすれば、夜空には、人工衛星が飛び交い、その明るさで、星がみえなくなるだろうという話をどこかで読みました。

今でも、明るい照明により都市部では、星はあまり見えません。それでも、目を凝らせば、シリウスやベテルギウス等冬の星座が見えます。山間部に行けば、美しい北斗七星が見えます。しかし、これらがすべて失われるかもしれません。そうなったとき、うしなったもののありがたさを初めて痛感するのでしょうか。近い将来、「夜空に星が見えるなんて、そんなのどかないい時代があったんだ」と、うらやましむ時代がくるのでしょうか。


2019年12月19日木曜日

水害+泥害

日本中の砂防ダムが、流れてきた泥の沈殿で浅くなり、貯水のキャパが低下し、このままだと、ダムの役目が果たせないというニュースをどこかで見ました。この対策には、ものすごいお金がかかるでしょう。
しかし、さもありなんという気がします。今回の台風の河川決壊による被害を見ると、どの家屋も泥に埋まってました。これから類推すると、ものすごい量の泥が、上流の山から流れてきたことは、容易に想像できます。ということは、想像するのも恐ろしい程、山が削られているいえます。そういえば、今回の台風で、山肌の崩落が多く、それは、十分調査されていないが、森林の皆伐の影響が大きいだろうというニュースも、どこかで見ました。

政府の、経済的採算を優先する森林政策のため、皆伐のあと、植林をしておらず、はげ山が増えていると聞きます。今回の泥害が、こうした政府の、目先のことしか考えない政策の結果なら、泥害も又人災といえるでしょう。政府が、きちんと出費すべき植林政策をケチった結果、何倍もの出費となって、結局は国民にツケが回ってくる、愚かしいこと∞です。

政府の森林政策は、私の⇒森林を守れも、ご参照ください

2019年12月18日水曜日

習近平体制

中国は、アメリカに追い付き追い抜くほどなのに、一方で、ますます習近平の独裁的政治が際立っています。香港や、ウィグル自治区で、政治的抑圧に苦しむ人々の声は、抑えきれない程激しくなっております。昔、鄧小平氏が、改革開放の政策に舵を切り、市場経済の導入を始めた時、世界は歓迎し、自由主義経済が浸透すれば、いずれ自由と民主主義も進展するだろう、と楽観的な期待もありました。ところが、そうはなりませんでした。

商業の世界は、お金の力がすべてですから、平等が原則です。徳川幕府が滅んだのも、貨幣経済が発達しすぎたからです。ところが、中国の強権力体制は、貨幣経済が発達しても、弱まりません。なぜでしょうか。ここからは、私の勝手な推理です。

習近平氏が、権力を集中する過程で、激しい反腐敗運動があり、政界の大物が次々失脚しました。あれは、実は、本当のターゲットは、政界の大物ではなく、わいろを贈る側つまり、大資本家だったのではないでしょうか。つまり、中国に大資本が育ち始めた時、資本は次第に力を得て、政治家をお金の力で抱き込もうとしたでしょう。ここに、資本と権力の覇権争いが生まれたと思います。習近平氏は、反腐敗のキャンペーンのもと、資本を政治の支配の下に置くことに成功した、それが事の真相だったのではないでしょうか。

貨幣経済と強権政治が両立可能である、そういう極めて特殊な政治手法を生み出した、それが習近平体制ではないでしょうか。


2019年12月17日火曜日

特攻隊員の死

NHKのEテレで、NHKのディレクターかなんか忘れましたが、女の方が、自分の祖母の兄が、特攻隊で死んだが、死亡通知が来ないままになっているのを、その経緯を調べる番組をしていました。若い命が、愚かで無謀な軍の作戦によって失われる悲劇が、静かで最小の言葉で、語られていました。

一つちょっと、引っかかる箇所がありました。敗戦が決まったのに、「一矢も報いないで、このままでは終われない」という上官に従って、多数の若者が、攻撃の途にたち、あたら助かった命を、むざむざ失ったという痛ましい事実があったようです。どうやら、自分の兄は、その一人ではないか、という話の中で、祖母が、思わず「犬死にだ」と叫んだ時でした。祖母の兄が、「それは、今の価値基準で考えるからだ。本人の痛ましい死を前に犬死などと言ってほしくない」と激高する場面がありました。

この若者は、ずっと天皇制教育を受け、天皇のために死ぬことが、崇高なことと、おしえられてきました。だから、若者は、死の恐怖を乗り越え、純粋に崇高な気持ちで行動したのでしょう。それを、今の人が、犬死にだ、と言えば、違和感を持つ人もいるでしょう。しかし、犬死といおうが言うまいが、そんなことは問題でありません。問題は、このような死を、絶対繰り返すことが許されないということ、これに尽きます。

追伸2019.19.20)安倍憲法改憲を許したら、それこそ、特攻隊は犬死になってしまう。

2019年12月16日月曜日

ガバナンスとガバメント

昨日のサンデーモーニングで、コメンテーターの姜尚中氏が、政府が時々使用する「ガバナンス」という言葉に、おかしいといっていました。ガバナンスとは、会社のCEOが使用する言葉であり、公的機関で使用するのはおかしいと。そのせいで、若者は、政治を、会社のCEOがするのと同じ、上位下達のシステムだと思っているという。確かに辞書を引くと、governanceは管理、  governmentは行政 とあります。大切な指摘だと思いました。

ついでに、governor(governess)は、日本語では知事ですが、逆に言うと、知事とは、統治する者、つまり選挙で選ばれたその州(日本でいえば県)の人民代表(governnor)です。だから知事は県民に直接の責任を負いながら、県民の意思を代行する義務があります。例えば、度重なる選挙や、県民投票で示された新基地反対の沖縄県の意思は、神聖なものであり、敬意をもって扱うべきで、国家といえども、今の安倍政権のような、やりたい放題は許されないことは明らかです。

2019年12月15日日曜日

中村哲さんの死

ペシャワール会を拠点に、アフガニスタンで、医療活動や灌漑設備の作業を指導して、多大な功績をあげ、現地の人たちに深く敬愛された医師中村哲さんが、銃撃で亡くなられました。メディアも、この訃報とともに、中村さんの功績を振り返ったり、識者が、追悼の気持ちを述べたりしました。しかし、私は、報道に接しながら、違和感をぬぐえませんでした。

危険な場所で、日本人も少ない中で、お金だって十分ない中で、73歳にもなって、まだ第一線で活動していました。こんなに日本中が悲しむのなら、どうして、今も彼は、第一線で活動せざるを得なかったのでしょう。それは、とても危険で、普通の市民が簡単に参加できるものではなかったでしょう。これほど、必要とされていることなら、本当は、国家が、専門の部隊を、送るなりして、中村さんらを援助すればよかったと思います。

だから、僕は嘆く前に、メディアは、本当は、政府がやるべきことを中村さんがやってきた、という重大な問題を、提起してほしかったのです。中村さんの遺体が飛行機に乗るとき、現地のガニ首相が、棺を担いでいました。日本の航空に出迎えた中に政府代表はいませんでした。安保法制により、アメリカと一緒に、世界の紛争を武力で解決する路線の、安部政権にとって、武器に頼ることなく、平和を目指すペシャワール会は、煙たい存在でしかなかったのでしょう。

前の天皇夫妻は、中村さんを皇居に招いたり最大のねぎらいの気持ちを表していたようで、天皇在位20周年記念式典にも招待されているようです。そうした関係もあるのでしょう、雅子妃は、先日、誕生日の言葉を述べられたとき、わざわざ中村さんの死に言及してました。こういう人は桜を見る会には決して招待されないのでしょう。

追伸12.29 japan teimes によると、中村さんの到着時、外務大臣が出迎えたそうです。テレビのニュースでは、そんなこと言ってなかったと思います。

2019年12月14日土曜日

家族共同体とは

近代とは、封建制度が、貨幣経済によって、崩壊して、資本主義社会になることです。貨幣経済は、一貫して、共同体を徐々に解体してきました。はじめは農村共同体、次に本家を中心とする氏族制度、次に大家族制度が次々解体して、今は核家族が当たり前です。これで、終わるのでしょうか。

共働きになれば、財布は二つです。貯金も二つかもしれません。又、独り暮らしを支える様々な便利なものがどんどんできています。又、ネットやSNAやゲームおかげで、一人が退屈ではありません。そのうち、AIの魅力的で、不平や文句をいわない女性(男性)が、一人暮らしの話し相手になってくれるでしょう。独身の若者が多いのは、今の非正規雇用やワーキングプアが主要原因でしょうが、シングルマザーの人の話もよく聞きますし、若者の独身志向は、こうした、共同体の解体のプロセスではないと、断言はできないと思います。

今迄は、種の保存という最重要な課題は、家族という共同体に、丸投げされていました。しかし、家族共同体は、永続的なものと信じる理由を私は見当たりません。人々が、子育てを、喜びというより、重荷と感じて、家族を選ばず、自由気ままな一生を生きることを選び始めた時、社会は、子育てを、家族の手から国家の事業として、実行しなくてはなりません。もしかすると、今すでにそんな時代がはじまっているのでしょうか。

2019年12月13日金曜日

ワンパターン

ブログを書くときは、思いついたことを一気に書き、事実関係はグーグルで確認しながら、30分くらいで仕上げます。最近、グレタさんのことや国語力のことを書いていながら、どちらも、おしまいには安倍政権批判になっていることで、ワンパターンみたいで、ちょっと反省しました。

江戸時代の狂歌で、最後に「それにつけても金の欲しさよ」を付ける話をおもいだしました。こうすると、あーら不思議、大抵の上の句に合うようです。

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺 それにつけても金のほしさよ
 
理由は簡単です。江戸の庶民は、貧しく、いつもお金のことが頭を離れないという悲しい現実があったということでしょう。しかし、それから数世紀後、スマホの時代の今も、その現実はあまりかわっていないのではないでしょうか。他人ごとでありません。
 

僕は、毎日、何のニュースに接しても、しまいには安倍政権の不正、隠蔽、メディアへの圧力、憲法発言、権勢になびく見苦しい人たち、など不快のタネのオンパレードを思い出す悪い癖がついてしまいました。

枯れ枝に 烏のとまりけり 秋の暮れ それにつけても安倍の憎さよ

2019年12月12日木曜日

グレタ・トゥンベリさんの怒り

グレタ・トゥンベリさんの、地球温暖化に関する国連総会での演説は間違いなく歴史に残る演説となるのではないでしょうか。最も重要な、たった一回のチャンスに、16歳の少女が、伝えるべき内容を、世界の大人を相手に、100%過不足なく伝えることができたことは、驚きです。彼女の、How dare you (よくもそんなことができたわね) という怒りのパフォーマンスも又、重要なメッセージでした。100の言葉を並べても表現できない、怒りによってしか表現できない、人類が直面している危機の深刻さを、彼女は、怒りで表現し、世界の行動に火をつけました。

しかし、怒りはある意味、相手を信頼する証でもあるでしょう。誠実のかけらもない安倍政権には、もはや、そのような怒りすらわいてきません。

2019年12月11日水曜日

小泉環境大臣の失態

日本のメディアは、地球温暖化問題の正しい報道を、今まで、一貫して怠ってきました。そして、口を開けば、日本の優れた省エネ技術などと、環境先進国であるかのような、ウソで美化した日本を、国民に植え付けてきました。しかし、11月からの国連総会やCOP25 を通じて、日本の二酸化炭素削減目標がいかに他国に比べ低くやる気がないものか、とか、「効率の良い石炭火力」がどれほどゴマカシか、「美しい言葉はもいいらない、行動の提案を」とのグテレス国連事務総長により、安部氏は発言の機会を得られなかった、等、隠しおおせないほど沢山のウソが次第にバレつつあります。不名誉な化石賞をもらったなどと、さわいでますが、今まで報道しなかっただけで、日本は以前から化石賞の常連国です。

しかし、私が一番驚いたのは、こうしたウソの日本の姿を、小泉環境大臣も、信じていたらしいことです。少し、まともに、環境問題に関心を持っていれば、世界における日本の、温暖化対策が、いかに遅れていて、世界の舞台に行けば厳しい追及にあるだろうことは十分予測できたはずです。その準備がまるでできていませんでした。環境に悪いことを、カネのために、悪いと知ってやっているなら、記者の追求に、もっとうまい答えができたでしょう。しかし、どうやら、日本の政治家は、悪いことを悪いと知らずに、ただただカネのためにやっているようです。これのほうがずっとおそろしい。

2019年12月10日火曜日

公文書と安倍政権

いまさら、言う気にもなれませんが、この政権の公文書の扱いに見られるモラルの崩壊は底なしです。公文書は、人々の知る権利として、民主主義の基礎です。また、後世にとっては、歴史の一部であり、神聖なものです。こうしたものを自分の利益の為に、廃棄したり改竄することは、国民全体に対する最も罪深い犯罪行為でしょう。

自由と民主主義の正反対みたいに言われる旧ソ連ですが、そのソ連は、崩壊後、内部文書を正直に公開しました。それは、徹底したもののようで、英雄だったレーニンによる農民弾圧の事実までが、明らかにされました。ヨーロッパや日本などによる、革命干渉や食糧難など理由があったにせよ、当局にすれば、最も隠したい不都合な真実だったはずです。自国ソ連の失敗を、二度と繰り返さないために、歴史の資料にしてほしいという願いが、文書の公開をさせたのではないかと思います。おかげで、ここから引き出される教訓は、掛け替えのない貴重な価値を持つでしょう。

それに引き換え、日本軍は敗戦が決まるや否や、すべての公文書を、焼却しました。悪事を働いた自覚があるから、戦後の裁判を恐れたのでしょう。それをいいことに、「国が慰安婦に関与したなど、どこに証拠があるのか」などと言うのが、安部氏ら靖国派です。歴史を直視せず、自分に都合のいい事実だけをつまみ食いして、「日本は、朝鮮のためにいいこともした」などと主張する歴史修正主義に同調する安部氏にとって、公文書の隠蔽、破棄、改竄など、何でもないことなのでしょう。

2019年12月7日土曜日

トランプ主義とは


トランプ主義が世界に広がっているのではないか。東欧、ドイツ、ブラジル、その他、様々な国で。トランプ主義は、ナショナリズムと単純に言えない、ファシズムと単純にいえない、よくわからない、しかし、自由主義や民主主義を軽視し、反移民、人種差別、みたいな、何かが世界に広がっています。その正体を見極めるひつようがあります。

ISみたいなテロ集団ではない、しかし、今までの民主主義の制度に対して、不信を持っているようにも見えます。こうした力が世界に広がることは、恐ろしいことです。アメリカでは、グローバリズムの中で、資本主義が強くなりすぎ、逆に弱者の側に立つ勢力が弱すぎ、今までの民主主義的運動にうんざりした人たちが、トランプ氏やB・サンダース氏の人気につながりました。類似のことが世界でおきているのでしょうか。

イルコサーシャ・コワルチュクというドイツの歴史家が、次のように言っているそうです。東ドイツのネオファシズムについて、語ったあと、・・・さらに、米国のトランプ大統領やブラジルなど世界的な現象です。これは反グローバリズム・反ヒューマニズム・反西欧・人種差別・民族主義・ファシズムの運動です。それは抗議ではなく、民主主義と自由に敵対する運動だと明確に認識しなければなりません。民主主義者のすべてが団結して立ち向かわなければ、深刻な事態になります。

2019年12月6日金曜日

国語読解力の低下

OECDを含む、79か国の15歳生徒60万人を対象にした国際学力テストで、科学や数学では優秀な成績だった日本の児童の国語読解力が低かったことが話題になりました。2015年では8位だったのが、今回は15位だそうです。なぜ話題になるかといえば、多くの人が「やっぱり」と思うからではないでしょうか。スマホによる、読書離れ、直接対話の減少など、いくらでも、原因はありそうです。

話は別ですが、来年度から、高等学校の国語の学習指導要領が、新しくなります。そこでは、従来の文学の読解力などより、マニュアルや契約書の読解力が重視され、論理国語という科目まであると聞きます。

国語力とは、言葉を操る力であり、それは、自分の気持ちを、正しく伝えることが原点ではないでしょうか。しかし、国会では、言葉が、言葉として使用されていません。安倍総理が「丁寧に説明する」とか、「法に従ってしっかりやってゆく」という時、言葉は、何も語らないための手段です。こうしたことは、伝染するのか、横浜の林市長も、カジノについて、一切の対話を拒否して、「丁寧に説明する」といってました。

この人たちにとって、人間としての誠実さを学ぶ文学などよりは、「論理国語」で、木で鼻を括るような、又はボロが出ないように話す技術の方が、「実用的」に見えるのでしょうか。

2019年12月5日木曜日

日本人は、まだ未成熟だ

私が、日本の良さを再発見すべきだという時、何もナショナリズムの感情をいっているのではありません。歴史認識で共通基盤を持てないのは、どちらも、どこかで、借り物の知識で議論していないかを問うているだけです。

青春期になった若者が自我に目覚めて自分とは何かを問うように、日本人とは何者かを考えるべきだと思います。

例えば、武士道、サムライについて、考えます。数理経済学者の森嶋道夫氏は、道徳規範としての武士道にひかれていたようです。武士道は、ラストサムライなど、ハリウッド映画では、立派な国際ブランドです。確かに、黒沢明氏が描いた七人の侍の人たちは、人間としての魅力があり、僕も誇らしく思います。しかし、武士道の欺瞞性、偽善性が描かれた映画も沢山あります。
江戸庶民は、忠臣蔵を愛しましたが、それは何も、「忠義の心」という武士道を愛したのではなく、その底にある、人間としての誠実な生き方を愛したのだと思うのです。武士道ひとつとっても、様々な評価があります。その中から、日本人が、育てて今なお大事にしているホンモノの普遍的価値があると思うのです。それは、丁度、芭蕉が、日本人のある種の美を発見して、その美に「わびさび」という言葉を与えたような、創造的作業を要するでしょう。
(一部内容を変更しました2019.12.8)


2019年12月4日水曜日

日本人のアイデンティティ3

靖国派の人たちは、明治時代を栄光の時代と見ます。しかし、憲法擁護派の人たちは、明治は、そのあとの、侵略戦争につながる天皇制強権政治の始まりと見ます。まるで、正反対です。それなら、共通基盤として、江戸時代に戻ってみるのは、どうでしょうか。

江戸時代は、日本が世界に誇るような文化が花開いた時代です。何より長い期間平和でした。鎖国をしてましたが、長崎出島を通じて、蘭学など、西洋の学問は取り入れておりました。高い町人文化開花しました。儒学など、モラルもありました。列強が清を侵略したり、黒船が来たりして、国家が危機に陥った時、高杉晋作や坂本龍馬のような、多数の傑出した人材が活躍できたのは、それだけの基盤があったからでしょう。私の歴史の知識では、とても無理ですが、現在の日本の原点を探そうとすれば、それは、天照大神などではなく、江戸時代ではないでしょうか。

幕末の開国で日本に来た外国人は、日本の文化の高さや、街の清潔さ、子供を大事にする文化など、強い印象を与えたといいます。


2019年12月3日火曜日

日本人のアイデンティティ2


私は、日本人の西洋コンプレックスは、明治以降、根強く今も残っていると思っています。だから、イチロー選手や大谷選手が活躍すると、異常なくらい喜ぶのだと思います。一方、韓国や中国に対しては高飛車です。

明治時代、文明開化が始まったばかりの頃は、西洋コンプレックスはもっと強かったのは、やむを得なかったでしょう。あの、夏目漱石だってそうでした。「三四郎」という小説で、田舎から汽車で上京中の主人公に、「先生」という人が、つぎのように、述べています。

・・・いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。・・・まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない・・・

今、日本が、長い時間をかけて、西洋に追い付き、追い越せと、シャカリキに努力し、

経済的には何とか追い付いた今、冷静に考えると、私には、日本には、富士山いがいに、

自慢するものは、沢山あるのではないか、それに気づかないだけだ、と思います。

例えば、日本人の「和」は、平和とも少し違う、味わい深い意味があると思います。又は、「もったいない」というような、日本人のつつましい生活態度、日本人の繊細な美的感覚、これらは、西洋の文化とは別の、日本独自のもので、これからの、平和や環境の問題解決へむけて、日本独自の貢献ができるかもしれない、世界に通用する立派な文化価値をもっている、と思います。(続く)

2019年12月2日月曜日

日本人のアイデンティティ

憲法をめぐる対立の背後には、安倍総理もその一員である、靖国派というイデオロギー集団があります。戦後長い間、護憲派と改憲派との対立は、外交、歴史、等をめぐって対立してきました。私は護憲派として、靖国派の、歴史をゆがめたり、憲法を順守しない姿勢には、腹がたちます、しかし、どちらでもない、多くの人は、両者の議論はお互い相手を批判するだけで、議論がかみ合うこともなく、深まることもないことに、冷めた目でみているのではないでしょうか。なんとか、もっと、議論がかみ合って、議論が生産的に深まるようにできないでしょうか。

アメリカ人なら、対立があっても、独立戦争の時代にさかのぼることで、自由や平等の理想に燃えていた共通の理念を思い出すことで、それが、対話の共通基盤となります。イギリス人なら、第二次世界大戦で、チャーチルを中心にヒットラーを闘ったこととか、トラファルガー海戦でナポレオンを破ったことなど、かもしれません。

日本には、そういった、建国のような原点があるでしょうか。明治維新は、近代国家の出発だったとしても、それは、天皇制の軍国主義国家だったので、建国の原点にはなりえません。敗戦は、戦後民主主義の出発であり、平和憲法の出発でもありますが、誇るべき建国の原点とは言えないでしょう。では、本当にないのでしょうか。私はそうではないと思います。(続く)

2019年12月1日日曜日

徴用工問題の世界史的意味

今月の12日には、イギリスのEU離脱をめぐって、総選挙が行われます。その中で、野党労働党党首 J・コービン氏の選挙公約の中に、興味深い項目を見つけました。それは、

現在中東やアフリカなどの旧イギリス植民地で、今なお紛争が続いていることに対するイギリスの責任を見直す、というものです。そして、英植民地での戦争に動員された黒人やアジア人への謝罪と、動員解除時の支払いの差別への補償をする・・・というものです。

今年は、1919年にインドで起きた、「アムリツァル虐殺事件」から丁度100年ということです。非武装・非暴力のデモ隊市民1500人が、イギリス人が率いるイギリス領インド帝国軍によって、一斉に銃殺されるという悲惨な事件でした。メイ首相は「英国の恥ずべき傷」と述べましたが、謝罪はしていないそうです。

1919年といえば、日本の植民地化に対する抵抗運動が、朝鮮では 3.1事件(万歳事件)、中国では、五四運動が起きた年でもあります。

そして、今日本では、徴用工問題として、尾を引いており、イギリスでも、選挙の野党側の政策になっています。過去の清算を求める動きは、世界の動きとして、今後もつよまるのでしょう。安倍氏のように、「完全不可逆的に解決した」などでは決してないということです。






2019年11月30日土曜日

希望はある

地球温暖化問題をきっかけに、様々な、環境問題への運動が加速しています。グレタ・トゥンベリさんが、飛行機に乗らないことで、ロックバンドが、飛行機に乗る講演をキャンセルしたといいます。大量の二酸化炭素を排出するジェット機に乗るのは、「とび恥」だという言葉まで生まれたといいます。プラスチック問題、食品ロス、過剰消費等、今様々な問題が地球環境をおびやかし、その危機を訴える大きいうねりが、世界に生まれつつあるのではないでしょうか。そして、そのうねりを支えているのは、従来のような労働組合などではありません。従来なら、政治の舞台に無縁だった、若者や女性が、スマホを武器に立ち上がっています。そうした市民が、国家とならんで、政治の舞台に登場しつつあります。香港の若者も、こうしたうねりと無縁ではないと思います。このようなことは、歴史上かつてなかったことでしょう。

財界は、やれ次世代通信技術5Gだとか、第4次産業革命などと喧伝しますが、新たな時代と共に、民主主義の形も変わりつつあるのかもしれません。



2019年11月29日金曜日

ウクライナ疑惑と桜疑惑

トランプ大統領が、ウクライナ疑惑で、弾劾審査を受けています。安倍総理が、桜疑惑で、追求されています。この二つ、共通点ありすぎです。どちらも、親分直撃の爆弾、しかもどちらも完全クロ、真っ黒と誰もが内心思っています。

しかし、どちらも、議会の追及に対して、知らぬ存ぜぬを言い張っています。どちらも、民主主義の発達した国でありながら、このままでは、とんでもない無茶クチャがまかり通ってしまいそうです。

しかし、この二つの事件が、似通った経過をたどっているという事実は、注目に値すると思います。
資本主義が発達するほど、巨大なカネ、権力といった闇の部分も拡大し、闇の中で、私たちには見えない力学がはたらくのでしょうか。闇を照らす光の力は、最終的には国民一人一人の、不正を許さない気持ちではないでしょうか。それが、民主主義の力なのでしょう。発達した資本主義の国では、民主主義もまた、より高度化することが、求められているのかもしれません。


2019年11月28日木曜日

自由2

封建時代とは、人間同士が何らかの結合状態であることで、社会は成り立っています。農民は、地域共同体であり、その上には庄屋などがまとめやくとしております。又、身分制度がありますが、この身分は、年貢という強制的収奪を正当化する、装置です。つまり、農民は、家族や一族、地域、身分、等の人間同士の結合が、社会をつくっています。

分業や貨幣経済が浸透することで、人は、所有という名の、財貨と結合をすることで、人間同士の結合状態から、解放されます。例えば、商家で、丁稚小僧になれば、旦那とは、主人-使用人という、お金で結ばれた関係です。他人の世話にならずに生きて行ければ、それだけ、自由の度合いは増えます。市場経済の発達とともに私たちが手にした自由は、「~からの自由」であり、それは尊いものではありますが、同時にそれは、ますますお金に縛られる自由でもあることは、否定できない事実です。商売をする資本もなく、農村を捨て都市にでた人は、自分の身体一つを資本にして、賃労働者として、働くしかありません。

人間は、自由を求めて市場経済というお金の社会をつくりました。しかし、そこで得た自由は、「お金の支配」という高い代償を払った自由なのです。封建時代、ずっぽりと、その社会にはまっていた当時の人々は、それがあたりまえで、自由がないなどと思いませんでした。だから、自由が何かも、わからなかったと思います。それと同じように、私たちも、実は、お金という拘束の世界にはまっていて、お金がもたらす自由を、自由と思い込んでいて、本当の自由とは何かが、分からないでいるのかもしれません。

2019年11月27日水曜日

自由平等友愛の自由

自由は、昔からあったわけでなく、封建時代の終わりに叫ばれ始めたようです。ドイツでは、「都市の空気は自由にする」という諺まで生まれました。自由について、深く調べたわけでもない私ですが、ブログの成り行き上、勝手なことを書かせていただきます。

私は、自由は、私的所有制度と深い関係があるのではないかと、考えております。ある財貨を、「これは私のものだ」という時、近代社会においては、所有権として、神聖なものです。それは、近親者とても、侵害できない、排他的結合の力を所有者にもたらします。

封建時代に、そのような完全な所有は存在しなかったでしょう。武士が、殿様からご褒美にもらった刀を、売って、換金するなどはあり得ないでしょう。日頃、相互に助け合っている百姓が、ある年、自分の農作物がたまたま豊作だからといって、勝手に、余剰の作物を、市場で売ったりしたなら、今までお互い助け合ってきた隣人たちは、怒るでしょう。

逆にいうと、商品交換の市場が浸透するということは、そうした共同体が、崩壊しつつある証拠でもあります。売り買いできるということは、所有権が確立していることを意味します。「これは私のものだ」という排他性は、共同体の紐帯を断ち切る破壊力を持ちます。息子が宝くじで1億円当たって、「これは全部俺のものだ」といったとき、親がそれを容認する、しないに関わらず、親子関係を支えている「家族共同体」は、変質するでしょう。(続く)

2019年11月25日月曜日

平等と嫉妬

嫉妬という心理は、あさましい心根として、ネガティブに見られがちです。しかし、嫉妬も、進化の過程での、フリーライダー防止のため、絶えず平等を追求する努力から生まれた心理ではないでしょうか。だから、例えば、農村社会などの共同体社会では、みんな同じ条件で生活している場合、ある人だけが、急に羽振りがよくなったとすると、それは、無関心でいられないのは、共同体の防衛本能かもしれません。例えば、哲学者三木清の「人生論ノート」では、「嫉妬について」という章で、次のように言っています。


嫉妬は「自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通」で、「平均化を求める傾向」があると言います。

2019年11月24日日曜日

自由平等友愛の平等

冷戦時代から、ポスト冷戦に代わる過程で、平等より、自由の価値が増えたように思います。教育の世界でも、平等な教育は、子供の可能性を抑える悪平等だ、個性をもっと重視すべきだ、といった批判が出ました。世間は豊かになって、平等より、多様性を重んじるようになったともいえます。ただ、自由競争の度が過ぎてしまって、格差が激しくなった現在、再び平等が、重要になりつつあるのではないでしょうか。平等も又人間の普遍的価値として、社会正義を保つうえで、重要な社会基準ではないでしょうか。そして、この平等もまた、その起源をたどると、猿からヒトへの進化と、関係があると、私は考えています。

人類は、共感の心を発展させ、協力集団をつくりながら、敵や困難を乗り越え、進化してきました。その協力集団は、平等が、絶対的重要なルールです。狩りは、みんなが参加する、とった獲物は、みんなで分かち合う。(もちろん、年齢や性別による分業はあるでしょうが)つまり、原始共産制でした。しかし、こうした平等を悪用するズルい人間はいるものです。狩りや、採取をするとき、やっているふりだけして、みんなが見てないところで手を抜く、もらうものはちゃっかり一人前もらう、という手合いです。こういう人を「フリーライダー」と呼ぶそうです。こうしたズルい人間は、協力集団を崩壊させかねません。だから、絶えず、フリーライダーのズルを許さないよう、お互い監視の目を光らせる、つまり、隣人の行動に、絶えず注意が向く、そうした本能が身についたといいます。これが、平等の起源ではないでしょうか。(続く)


2019年11月23日土曜日

友愛2


文明の発達とともに、戦争の規模も拡大して、ついには第一次世界大戦みたいな世界的規模の戦争まで引き起こしました。しかし、それを反省して、国際連盟をつくったり、パリ不戦条約を結んだりもしました。それでも、すぐまた第二次世界大戦を引き起こしました。そこでは、ホロコーストがあり、原爆投下がありました。しかし、それを深く反省するのも又人間です。何度失敗しても、諦めることはけっしてなく、戦争のない、人間が仲良く協力する世界を作り上げたい、それも又、人間が進化の過程で獲得した人類の本性ではないでしょうか。



兵士は、戦場で、殺し合いをするためには、人間性をすてるような激しい訓練をするだろうし、実際、戦場では獣のようにならないと生き残ることは困難なのかもしれません。それでも、本当に人間らしさを捨てることはできないでしょう。かつて、アフリカから奴隷船で拉致誘拐されてきたアフリカの人たちは、いわれもなく、動物以下の扱いを受け、虐待されました。おそらく獣のような凶暴な怒りにとらわれたでしょう。しかし、それでも、人間性を捨て、けだものになりきることは不可能です。



人間らしい心、それは、長い進化の産物であり、深く誰の心にもあるのではないでしょうか。自由平等友愛の「友愛」が普遍的価値であるのは、そうした理由によるのではないでしょうか。そして、人間が人間を求める心、それがあるからこそ、人間はここまで発展してきたのだと思います。

2019年11月22日金曜日

自由平等友愛の友愛

ここ何年か人類学の発展が目覚ましく、人類学の本も、多く読まれているようです。長い間謎だった猿からヒトになる過程がわかり、介在する様々な類人猿の系列が明らかになりつつあるといいます。その背景には、精力的な発掘作業や、古い骨でもDNAが抽出できる技術や、古い骨のから小さい断片から全体像を推定することを可能にする学問の蓄積等々があるようです。

そうしたことから、重要なことが明らかになりつつあります。それは、この猿からヒトへの進化の過程では、心、言語、大きい脳の3つが互いに関係しあいながら、進化してきたということです。人間にしかない「心」は、そうした進化の産物だといいます。

森林での樹上生活から、草原での二足歩行になった時、足も遅く、牙もなく、カギ詰爪もない猿人は、弱者だから、お互い協力することが、生きる術でした。そうした中で、共感する心が進化したといいます。人間は、例えば、拷問みたいに痛めつけられる人を見ると、自分も痛みを受けたかのような苦痛を感じるのは、心理学でも確認されていて、これは、こうした進化由来の人間の本性だといいます。

現在の、核廃絶の運動の背景には、広島長崎の被爆者の話や、悲惨な写真や絵の力が大きいでしょう。これは、つまり、進化の過程で獲得した共感の力が、世界史に影響を及ぼしている、といえるのではないでしょうか。つまり、御先祖様の贈り物です。(続く)

2019年11月20日水曜日

文系と理系2

テレビのニュースなどで、ニュースキャスターは、科学ニュースだと、例えば、ダークマターの話などが話題になると、「むずかしい話ですよね」といい、自分にもよくわからないことを公言して、相手もそうであると決めつけ、かなりはしょった手抜きの説明しかしません。その時、キャスターは、赤ちゃんに語るように、赤ちゃん言葉で、視聴者に語っているのと同じです。

英語版のヤフーニュースや、英字新聞などの科学記事を見ると、そうではありません。頻繁に最先端の科学ニュースが登場しますが、そして、高度な内容を、原理から分かるように、一生懸命説明しています。

この違いはどこからくるのでしょう。文系的教養を知らないと、時に恥ずかしいと思います。例えば、若い女性タレントでも、勝海州が、江戸時代か平安時代か、判別できなければ、ちょっと恥ずかしいでしょう。しかし、原子と分子の違いを知らなくとも、恥ずかしいと思わないのではないでしょうか。しかし、基本知識としての重要性は、後者であることは、明らかです。

私は、人生に意味のある大切な知識は、基本的に面白いし、又本当は難しくない、と信じております。そして、理系の知識は、面白いし、難しくありません。しかし、「難しい理系」という「食わず嫌い」はなかなか消えません。

「難しい理系」に対する恐れは、文系と理系という線を引くことで、解消できます。理系の基本知識がなくても、「私は文系だから」といえば、通用するからです。これが日本です。こうして「私は文系」という逃げ場所は、消えることがありません。これでは、いつまでたっても、科学は万人のものにならず、「変人」のものであり続けるでしょう。

追伸)要するに日本社会全体が、科学を、お客さん扱い、よそ者扱いすることで、自分たちの文化の一部として受け入れようとしていない、といったらちょっと言いすぎでしょうか。

2019年11月19日火曜日

文系と理系

以前、大和市出身のノーベル化学賞の根岸さんが、大和で、凱旋講演をすることがあり、私も、期待して参加しました。しかし、司会の大和在住の確か同級生の方は、「私共凡人には、ちんぷんかんぷんの難しい御研究のようで」との卑屈な紹介のせいかどうか知りませんが、根岸さんは、私が期待した専門の話は何一つされず、思い出話などに終始し、私はいたく失望した記憶があります。

科学にたいし、「難しいもの」「近づきがたいもの」、という恐れの気持ち、これは、非常に根強く、私たちの生活の中に、のこっています。確かに、ノーベル賞の業績など、そのままでは、理科の教師の私でも、ちんぷんかんぷんです。だから、多くの人が、科学には、畏敬や怖れを抱きます。人々と、科学の間には、いつの間にか、深い溝ができてしまっているのです。理系と文系という言葉は、日本独特と聞きますが、その理由の一つは、こうした溝と関係するのではないでしょうか。

「科捜研の女」という、私も好きなテレビ番組があります。その主人公の榊さんは、優れた科学者ですが、周りの空気をまったく読まない変人です。又、物理担当の人は何人か変わりましたが、どの人も、変人です。つまり、優れた理系は、自分たちとは違うのであり、溝の向こうの人であり、通常社会で交わると、変な行動が出てくるに違いない、そんな風に思っている人がおおいのでしょうか、そして、それは、正しいでしょうか。(続く)

2019年11月18日月曜日

野党はだらしないか

バラエティー番組、フジテレビのバイキングで、MCの坂上忍氏が、国民の怒りを代表するかのように、安部政権を痛烈に批判したあと、いっていました。「それにしても、野党がだらしない」からこうなるんだ、と。あたかも、喧嘩両成敗の様に。このように、時の政権批判をしたあとは、必ずその毒を中和し、無毒化することが、今のマスコミで、生き残るために、必要な「忖度」なのでしょう。

確かに、野党は弱すぎる点で、野党にも、責任はあるでしょう。しかし、国会での、安部氏の度重なる疑惑隠しに関しては、ちょっと違うと思います。国会つまり、立法府は、安倍政権という行政に対して、チェックする責務があり、それが、三権分立です。だから、国会議員は政党に関係なく、だれでも、立法(議員)立場から、「おかみ」(行政)をチェックする責務があります。それが、国民に選ばれた代表である「議員様」の基本職務です。

しかも、立法の代表者は最大多数の自民党です。だから自民党議員は率先して、行政の疑惑を正す、立法の側からの責務があるのです。国会とは、野党対与党ではなく、行政VS立法、つまり、お上VS国民代表、それが三権分立の趣旨です。

安倍氏は、いつもいいます。「国会が求めれば私はいつでも説明します」、と。しかし、自民党の妨害によって、それは、実現しないことを十分承知の上でいっているのです。モリカケ問題で、国有地を格安で売却した一大疑獄でも、安部氏が安泰なのは、野党がだらしないからではなく、自民党の妨害で、国会を機能マヒにしたからです。最高裁判所といい、国会と言い、この国の三権分立は、ないに等しい。これで、民主国家か、といいたい。

2019年11月17日日曜日

生き物を大切に

先週のNHKの「ダーウィンが来た」という番組で、都会で、セミが繁栄するわけをいっていました。それは、桜などの街路樹が関係しているといいます。セミは、木の根っこで、数年幼虫として、樹液を吸いながら成長します。しかし、長い幼虫期間は、その分、モグラという天敵にやられるリスクを増大します。しかし、コンクリートだらけの都会にはモグラはおらず、街路樹の根に住むセミの幼虫は安全だというわけです。

自然を壊し、森を破壊する人間は、セミにとって、敵だったはずです。しかし、その敵が作るコンクリートのジャングルが、皮肉にも、セミを助けます。敵といい、味方といいますが、実は、生物は、みな必死で、自分のことだけを考えて生きているにすぎません。共生などといい、生物が助け合っているかのように、思い描くのは、人間の情緒的な思い込みで、生き物の感知する所ではありません。しかし、その結果、不思議にも、自然界は、生態系という見事に調和のとれた、相互依存の世界を形成します。知性と余裕のある人間だけが、全体像を認識することができます。ということは、人間には、生物として、生態系を守る、という重い倫理的責務があるのではないでしょうか。人間も又、生物として必死で、稲を食う昆虫を退治し、食料として、魚や獣を食べます。しかし、生きるために必要な場合以外に、動植物を殺してはいけない、これは、昔からある、「汝殺すなかれ」と同じく重く大事な基本倫理ではないでしょうか。それは、仏教の教えとか、動物愛好家だけのものではなく、もっと深い、全生物の代表であるホモサピエンスとしての、普遍的道徳基準ではないかと思います。小学校の道徳教育の本の、第1ページの書くべきです。

「むやみに、生き物を殺してはいけない」

2019年11月16日土曜日

アマゾン3

どれほど大型のディスカウントショップでも、店の大きさには、限度がありますから、陳列する商品の数には限度があります。しかし、ネット上の「ネットショップ」は、全国の商品の品ぞろえを、たちどころに眺めることができます。これでは、競争になりません。家電や、スポーツ用品、衣類、玩具類、本などは、そういう点で、ネットが断然有利に思われます。だとすると、日本でも、「アマゾン効果」がじわじわと現れるのかもしれません。

今後、ドローンなどを利用すると、状況がまた変化するのか、へき地や山間部などの配送には、確かに便利でしょうから、その面では、アマゾンは更に拡大するかもしれません。又、アマゾン等の巨大デジタル産業業GAFA達は、タックスヘイブン、つまり税の安い国へ、利潤を移転するという手法で、税金も少ししか納めていない点でも、競争に有利です。

大型店舗をはじめ、店は、商品購入の場所にとどまらず、街のお祭りや行事の重要な参画者として、地域コミュニティの一部です。昔、大型店舗の進出によって、地域商店が次々消えていったように、今度は、その大型店舗が、アマゾンによって、次々消えて行く。その後の町の風景は、どうなるのでしょう。そういえば、SF映画に出てくる町は、どれも、地域コミュニティなどない殺風景な街の上空を、ドローンみたいなのが飛んでいます。それを寒々とした風景と感じる私は、時代遅れの人間になりつつあるのでしょうか。

2019年11月15日金曜日

アマゾン2

私も、くやしいが、便利さに負け、アマゾンを使います。ネットで、あらゆる商品が、詳しく眺めたり、値段を比較したりして、クリック一つで、購入できる、一昔前なら、夢のような話です。このような、単純なシステムを裏で支えているのは、巨大で複雑な技術のシステムではないでしょうか。次は私の勝手な想像です。

まず、こうしたネットの注文は、注文クリックした時点で、生産元に、自動注文がなされるように、アマゾンのシステムができている。注文を受けた商品の販売主は、搬送地ごとに、各地域にある巨大な倉庫に、商品を搬送します。倉庫には、日本全国各地からきた商品が集積されます。そこでは、コンピューターとベルトコンベヤーからなる、巨大な装置があり、更に狭い搬送地域ごとに、仕分け作業を行います。それは、包装箱についているバーコードかなんかの目印によって、機械が夜昼関係なく自動的に行います。仕分けされた商品は、各搬送地を担当する運送会社に引き渡されます。

だから、各地域に巨大な倉庫兼仕分け装置があり、それだけでも、巨大な投資を必要とします。その代わり、流通コストは、従来の問屋や仲買を通すシステムに比べ、下げることが可能でしょう。又、アマゾンの立場は、各商品生産者より、強いですから、有利な価格交渉ができるでしょう。(それは、アマゾンのサイトでの価格表示で反映されます)、アマゾンは便利さだけでなく、こうした価格競争を通じて、のし上がってきたのだと思います。また、倉庫では相当きつい労働があり、低賃金だと、聞きます。(続く)

2019年11月14日木曜日

アマゾン効果

アメリカでは、今、通信販売大手アマゾンのせいで、既存のディスカウントショップやショッピングセンターが、衰退の危機においやられている、ということです。大型書店、大型スポーツ店、アパレル、家電、玩具などの量販店が、次々経営破綻していて、それには、アマゾンエフェクト(アマゾン効果)という名前までできたといいます。アマゾンやウォールマートという巨人だけがのこり、後には何ものこらないことから、「焼き畑商業」という言葉すらあるといいます。

しかし、これは、他人事ではないと思います。人口20万位の私の町でも、ヤマダ電機や、ダイクマといった家電量販店や、ディスカウントショップが撤退しました。原因は知りませんが、ネット通販の影響も相当あるように思います。

昔、全国の地方都市で、似たようなことが起きました。当時、規制緩和の大合唱の中で、大型店の地方展開を認める、大店法が通過すると、全国にニョキニョキと、大型ショッピングモールができ、たちどころに大昔からあった地方の老舗の店は倒産し、町はさびれ、シャッター街に変貌しました。一方で、消費者は、大きいきれいな店で、多様な商品を、ゆっくり眺め、安い価格で買う、そうした利便性を得たことも確かでしょう。背景には、車社会やレジの導入など、技術の進展がもたらした、流通の大変動があったと思います。

そして、今、ネット社会という新たな時代が、再び、流通の世界に、大変動をもたらそうとしています。(続く)

2019年11月13日水曜日

善悪二分法的世界観

昔、小さいころ、よく映画を見ました。西部劇と時代劇は、悪い奴と良い人が、はっきりしていたので、幼い頭脳にも理解できました。しかし、現代劇は、善悪二分法の世界でないので、よくわからず、そばにいた兄や父に、「あいつは悪い方なのか」などとしつこく尋ねて、うるさがられました。

米ソ冷戦時代は、世の中は、進歩派左派と保守派右派が割と明確で、リベラル左派のつもりの自分には、進歩派左派は、善と思われ、世の中は単純明快でした。しかし、ソ連が崩壊して、二分法が成り立たない世界になり、途端に世界がわかりにくくなりました。たとえば、ヨーロッパ連合EUひとつとっても、「あいつはいい方なのか」と迷ったりしました。

しかし、最近又世の中が、再びわかりやすくなりつつあるのではないでしょうか。

いい方 格差に反対し価値観の多様化を尊重、核廃絶や地球温暖化パリ条約の側に立つ、難民問題などで、国連など国際協調主義に立つ(多くの途上国、ASEAN、先進国の良識派)、日本でいえば、護憲派、野党連合、

悪い方、それらを妨害したり、反対する(トランプ派アメリカ、ロシアや中国の覇権主義派、ブラジルその他のトランプ派、)、日本でいえば、安部政権与党

2019年11月12日火曜日

南北戦争と明治維新

アメリカから黒船が来て、強制的に開国をせまり、そのあと、日本中、市民革命みたいな大変な状態になり、結局明治政府が生まれました。

しかし、この当時開国をせまった当のアメリカも、南北戦争の時代だったのです。うかつな私は、このことを、最近「南北戦争の時代」(岩波新書)という本で、気づかされました。南北戦争は、1861~ 1865で、明治維新は1868 年、ペリーが来たのは、1853年、 1854年です。

つまりこういうことです。アメリカはイギリスから独立したものの、国としてのまとまりは弱く、奴隷制度に固執する南部諸州は、リンカーン大統領のアメリカ合衆国に反旗を翻し、アメリカ連合国を宣言し、ジェファーソンを大統領に選びました。南北戦争は、アメリカの悲惨な内戦です。日本も、戊辰戦争をいう内戦を経て、近代化しましたが、アメリカも内戦を経て、本当の意味での、近代国家になりました。

そうしてみると、アメリカが、身近に見えてきます。明治維新前、日本では、さむらいが刀を振り回していたころ、アメリカでも、内戦前、ガンマンは拳銃を腰にぶら下げて闊歩し、OK牧場の決闘などをやっていたわけでです。ただ、違うのは、アメリカの内戦では、リンカーン側、つまり進歩派が勝ったのにたいして、日本の明治維新では、それを後押しした、民衆や自由民権派は、敗北し、薩長などの保守派が勝利して、保守派の国家として明治政府となったことです。

それから、150年、アメリカでは、まだ黒人差別は残っています。そして、日本でも、安倍政権のような、明治政府を賛美する保守派が、残っています。どちらも、昔の内戦の名残が、しぶとく尾を引いているという点では、似ているのかもしれません。

2019年11月11日月曜日

季節の変わり目

人はよく、どの季節がすきか、などという。しかし、私は、季節の境目が好きだ。確か、11月8日は、立冬。秋分の日と冬至の、ちょうど中間点で、秋と冬が、混ざっている。菊はもう終わっただろう、今年はあの香りに接することがないままに終わってしまった。そろそろ、公園の山茶花が咲き始めるだろうか。そんなことを思うのが今だ。秋と冬の美しい混成合唱。この光、これが11月11日の光だ、この風、これが11月11日の風だ。そして、更に思う、これが、自分の75歳と37日目の日だ、これが2019年11月11日だ。

2019年11月10日日曜日

政府の芸術への干渉

芸術展示の、後援を取り消すという手段で、芸術に政治が干渉するという、事件が、愛知トリエンナーレ展、川崎のしんゆり映画祭と続きましたが、類似のパターンが、また繰り返されました。今度は、オーストリアで。

日本とオーストリアの国交樹立150年を記念する芸術展は9月からウィーンで開かれていているそうです。しかし、ここでは、安倍総理大臣にふんした人物が歴史問題などをめぐる演説を行う動画や原発事故をテーマにした作品、昭和天皇とマッカーサーが並ぶ写真に似せた作品などが展示され、外務省は先月30日になって記念事業としての公認を取り消しましたといいます。


庶民が、日々の生活の中で、経験する怒りや、やるせなさを、又は、政治に対する怒りを、くみ上げて、芸術的昇華を通じて、笑いや、作品にする、これは、芸術の、本来的姿であり、その作品がいいかどうかは、芸術として、見る人が評価するでしょう。それすら許さず、いちいち目くじらを立てて、作品を展示することすら妨害する、これでは、江戸時代と同じです。

批判風刺にさらされる自分の姿の醜悪さに耐えられず、権力をもって、応えようとしていますが、そこはこらえて、そこから国民の声を読み取ろうとする、それが権力を持つ者の、あるべき態度ではないでしょうか。

2019年11月9日土曜日

平和的生存権

2016年の安保法(集団的自衛権の行使を認めた安全保障関連法)の施行により、憲法前文にある平和に生きる権利(平和的生存権)や人格権が侵害されて精神的苦痛を受けたとして、市民ら約1550人が国に1人10万円の賠償を求めていました。しかし、東京地裁は、安保関連法が合憲か違憲かは判断しないまま、原告の請求を退ける判決を言い渡しました。
判決によると、この法律作成が、「原告らの生命安全に危険をもたらす行為とはいいがたい」といっています。そうでしょうか。この法律に対して、多くの市民、母親、若者らは、戦争が近づいてくるという不安と危機感をもって、抗議の声をあげました。裁判所の言う通りなら、あの危機意識は嘘だったのでしょうか。
又、裁判はこうも言っています。
「平和とは抽象的な概念で、・・・平和的生存権は国民に保障された具体的な権利とはいえない」そうでしょうか。それなら、憲法の前文(下記)の次の文章は、一体、何のためにあるのでしょいうか、ただのお飾りなのでしょうか。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」」れらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
この裁判は、これから、まだまだ各地で、続きます。一時の激情で、世の中は変わらない、長い地道な努力が必要です。

 

2019年11月8日金曜日

武器見本市を許すな

以前なら考えられなかった武器の見本市が、日本で、当たり前になりつつあります。戦争の手段である武器は、憲法9条に反するものです。だから、当然の帰結として、武器を作らず、持たず、輸出せずの、「武器輸出三原則」(1967年)が定められました。

しかし、これらは、安倍内閣が2014年に「防衛装備移転三原則」を定めたことで骨抜きとなりました。そればかりか、日本は武器輸出国として、武器製造や輸出を成長産業にしようとしています。こうした動きは、大学に軍事研究をさせようとする動きと連動した、危険な動きです。武器を「防衛装備品」などとオブラートに包んだり、「オリンピックに向けたテロ対策装備品」など、あの手この手で、安倍政権は、日本を軍事化させようとしています。そういう安倍氏にとって、今の憲法は、「時代に合わない」ものなのでしょう。


武器の見本市は、日本の軍事化の国際的宣言、宣伝の場でもあります。今年だけでも、幕張メッセで、6月と11月に、開催され、又されようとしています。二つの見本市は、次のようなものらしいです。ここは、悲惨な戦争が、金儲けのチャンスと考える、モラルなき世界です。

MAST Asia 
6月17日から19日までの三日間、千葉県の幕張メッセで開催されました。イギリス企業による国際的な武器見本市で日本国内で3回目です。防衛省を始めとした日本の省庁が後援として名を連ね、前回2017年の開催時には日本企業13社も出展しています。

DSEI Japan
11月18日から20日まで幕張メッセで開催されます。隔年ロンドンで開催されているDSEIの主催が、日本で、「DSEI Japan」として開催します。日本において初めて開催され、陸・海・空・セキュリティなど国家安全保障に関するすべての領域をカバーします。







2019年11月7日木曜日

軍事基地は時代遅れ


現在アメリカは、世界80の国に、800か所の軍事基地を配備しているといいます(なお付け加えれば、基地の約6割は、日、独、伊の敗戦3国にあるそうです)大変なお金がかかるでしょう。しかも、財政が苦しい状態では、それが果たして採算がとれる支出なのかどうか、トランプ氏ならずとも、気になるでしょう。

共産圏の拡大という恐怖が消え、無限の経済力は、過去のものになった今、世界の軍事基地はますます時代遅れとなりつつあるのではないか、そんな希望をかすかにではありますが、感じます。

一方、世界は、もう少しで、核禁止条約が、批准国50か国に達して、発効しようとしています。アメリカでは、民主党左派が勢いを増し、例えば、バーニーサンダース氏は、2002年のイラク侵攻の時にも、勇敢に反対票を入れた平和主義者です。もし、左派がトランプ氏を破り、大統領になれば、世界は大きく変わる可能性があります。

トランプ氏のアメリカ第一主義から、私は、そんな希望を感じます。

2019年11月6日水曜日

トランプ氏とアメリカの孤立主義

トランプ大統領が、またも、世界に恥をさらしました。一年後の11月4日を期して、地球温暖化パリ条約を脱退すると、通告したといいます。ここで、私は、温暖化の問題ではなく、アメリカの孤立主義を考えようと思います。トランプ氏のアメリカ第一主義は言い換えれば、アメリカは世界の指導者であるより、自分の利害を優先する、というメッセージともとれるからです。更に言えば、アメリカは、国内の格差や中国との競争などで、もはや、自分のことで、手一杯の状態であるという、アメリカ資本主義の弱体化、のあらわれかもしれません。

アメリカは、モンロー宣言でも有名なように、もともと、孤立主義の傾向を持っています。資源豊かなアメリカは、ヨーロッパの複雑な利害に巻き込まれる必要など何もなく、悠々と単独で、繁栄を楽しむことができましたし、大西洋という防壁があるから、軍事的心配もありませんでした。だから、第一次世界大戦も、しぶしぶ参加したし、正義感の強いルーズベルトが、国際連盟を提案した時も、議会が反対して、大統領のメンツをつぶしました。第二次世界大戦ご、アメリカが、世界の指導者みたいになったのは、そうしないと、共産国ソ連の勢力が、拡大する恐怖があったからです。

今、ソ連は消滅しましたから、アメリカは、わざわざ世界に出向いて、何かをする必然性はなくなりました。こう考えると、トランプ氏の孤立主義には、私は、もっと慎重に評価しなくてはならない何かがあるかもしれない、とも思えるのです。(続く)

2019年11月5日火曜日

大学入試英語試験の民間委託

文科省は、来年度から、今の大学入試センター試験に代わって、「大学入学共通テスト」を新たに実施します。そして、英語の試験は、ベネッセや日本英語検定協会など6つの事業者による検定試験の予定でした。しかし、色々な反対や不安、それに加えて萩生田大臣の「身の丈にあわせて」という発言が問題となって、民間英語試験は中止に追い込まれました。なぜ、政府は、このような拙速な失敗をしたのでしょう。私は、この背景には、財界政界が盛んに喧伝する、ソサイエティ5.0 があるのでは、と考えています。
政府は、来年から始ます5G 通信技術に合わせた、様々な先端技術を、教育にも取り入れようとしています。個人の学習などのビッグデーターを活用することで、将来、教室と黒板に頼る集団学習から、パソコンやタブレットによる「個別最適化」された学習環境が可能となるかもしれない、というわけです。こうしたことを実現するためには、教育の仕事は、学校や教師だけでなく、企業や、技術者の協力が不可欠でしょう。様々な形で、教育の民営化が促進されるでしょう。すると、教育は、企業にとって、大きな儲けの場となるのです。英語の試験の民営化は、そうした教育の民営化の大きな突破口になるでしょう。
英語の民間試験の拙速な導入の背景には、こうしたソサイエティ5.0 で熱に浮かされた政財界があるのでは、だとしたら、それはそれで、きちんと議論すべき重要なことであり、なし崩し的なやり方は、許されません。

2019年11月4日月曜日

アイヌ民族3

現在、政府は、アイヌ文化に関する巨大な博物館を、北海道の白老町建設しています。丁度オリンピックの直前、20120年4月にオープンと言いますから、北海道観光の新たな名所となるでしょう。しかも、その趣旨には、「・・・我が国の貴重な文化でありながら存立の危機にあるアイヌ文化を復興・発展させる拠点として、また、我が国が将来に向けて、先住民族の尊厳を尊重し差別のない多様で豊かな文化を持つ活力ある社会を築いていくための象徴として、・・・」と、美しい言葉が並んでいます。

通称「ウポポ」という愛称であるという、200億円をかけた、この国立の「民族共生博物館」は、アイヌの人たちに分断をもたらしている、という記事を、ジャパンタイムズで知りました。

それは、民族意識に目覚めたアイヌの人にとっては、素直に喜べないようです。なぜか。それは、次の現実があるからです。2017年の調査で、アイヌは13000人だそうですが、本当はもっと沢山いるということです。それらの人の大学進学率は、日本人全体の半分で、収入も大幅に少ない。日本人はアイヌを受け入れないから、差別を恐れるアイヌの人は、アイヌであることを隠して子供にも教えない、自分がアイヌであることも知らない、そうした「サイレントアイヌ」が多数いるといいます。そして、今まで奪われた歴史に対する謝罪も、補償もない、そういう国が、突然に、「民族の共生」と称して、博物館をつくり、そこで、アイヌ文化を展示しても、アイヌの人にとって、観光の道具にされている、としか思えないのは当然ではないでしょうか。そこで、観光客の前で、アイヌの唄や踊りを演じるアイヌの姿は、私は、想像するだけで、哀れをとおりこして、怒りを覚えます。

もちろん、アイヌの人の中にも、民族博物館に、経済的メリットがあるということで、賛成の人もいるといいます。そこには、貧しい状況に置かれた人たちをお金の力で、説き伏せようとする、あの原発と同じ構図と、住民の分断があります。









2019年11月3日日曜日

万歳三唱

先日、即位の礼で、安部氏が天皇の前で、天皇陛下バンザイをしていた。何か戦前に戻った気がしました。

万歳の風習は、大日本帝国憲法発布の1889年2月11日の頃が契機のようです。永井荷風が「国民が国家に対して万歳と呼ぶ言葉を覚えたのも、確かこの時から始まったと記憶している」と書いているそうです。当時、日清戦争前夜で、ナショナリズムが高揚する時代だったのでしょう。歴史家牧原憲夫氏によると、「万歳、日の丸、君が代、御真影」が4点セットだったといいます。これらは、明治政府が目指していた天皇制強権国家へ、国民を誘導するための装置だったのです。

漱石は、こうした国家主義的風潮が大嫌いでした。「趣味の遺伝」という短編小説には、次のような文があります。(日露戦争祝賀の風景の中で)

「余も――妙な話しだが実は万歳を唱えた事は生れてから今日こんにちに至るまで一度もないのである。万歳を唱えてはならんと誰からも申しつけられたおぼえは毛頭ない。また万歳を唱えてはるいと云う主義でも無論ない。しかしその場に臨んでいざ大声たいせいを発しようとすると、いけない。小石で気管をふさがれたようでどうしても万歳が咽喉笛のどぶえへこびりついたぎり動かない。どんなに奮発しても出てくれない。」

漱石は、国家だけでなく、権威が嫌いでした。ある時、時の総理大臣西園寺公望が主催したサロン会に、招待されたとき、次の句を書いて、出席を断ったそうです。それも、丁重な手紙などでなく、葉書1枚で。

時鳥(ホトトギス) 厠(かわや)半ばに でかねたり

(ホトトギスがないているのに、用をたしているから 出て行って聞くことができない)