2019年11月3日日曜日

万歳三唱

先日、即位の礼で、安部氏が天皇の前で、天皇陛下バンザイをしていた。何か戦前に戻った気がしました。

万歳の風習は、大日本帝国憲法発布の1889年2月11日の頃が契機のようです。永井荷風が「国民が国家に対して万歳と呼ぶ言葉を覚えたのも、確かこの時から始まったと記憶している」と書いているそうです。当時、日清戦争前夜で、ナショナリズムが高揚する時代だったのでしょう。歴史家牧原憲夫氏によると、「万歳、日の丸、君が代、御真影」が4点セットだったといいます。これらは、明治政府が目指していた天皇制強権国家へ、国民を誘導するための装置だったのです。

漱石は、こうした国家主義的風潮が大嫌いでした。「趣味の遺伝」という短編小説には、次のような文があります。(日露戦争祝賀の風景の中で)

「余も――妙な話しだが実は万歳を唱えた事は生れてから今日こんにちに至るまで一度もないのである。万歳を唱えてはならんと誰からも申しつけられたおぼえは毛頭ない。また万歳を唱えてはるいと云う主義でも無論ない。しかしその場に臨んでいざ大声たいせいを発しようとすると、いけない。小石で気管をふさがれたようでどうしても万歳が咽喉笛のどぶえへこびりついたぎり動かない。どんなに奮発しても出てくれない。」

漱石は、国家だけでなく、権威が嫌いでした。ある時、時の総理大臣西園寺公望が主催したサロン会に、招待されたとき、次の句を書いて、出席を断ったそうです。それも、丁重な手紙などでなく、葉書1枚で。

時鳥(ホトトギス) 厠(かわや)半ばに でかねたり

(ホトトギスがないているのに、用をたしているから 出て行って聞くことができない)




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