2019年11月30日土曜日

希望はある

地球温暖化問題をきっかけに、様々な、環境問題への運動が加速しています。グレタ・トゥンベリさんが、飛行機に乗らないことで、ロックバンドが、飛行機に乗る講演をキャンセルしたといいます。大量の二酸化炭素を排出するジェット機に乗るのは、「とび恥」だという言葉まで生まれたといいます。プラスチック問題、食品ロス、過剰消費等、今様々な問題が地球環境をおびやかし、その危機を訴える大きいうねりが、世界に生まれつつあるのではないでしょうか。そして、そのうねりを支えているのは、従来のような労働組合などではありません。従来なら、政治の舞台に無縁だった、若者や女性が、スマホを武器に立ち上がっています。そうした市民が、国家とならんで、政治の舞台に登場しつつあります。香港の若者も、こうしたうねりと無縁ではないと思います。このようなことは、歴史上かつてなかったことでしょう。

財界は、やれ次世代通信技術5Gだとか、第4次産業革命などと喧伝しますが、新たな時代と共に、民主主義の形も変わりつつあるのかもしれません。



2019年11月29日金曜日

ウクライナ疑惑と桜疑惑

トランプ大統領が、ウクライナ疑惑で、弾劾審査を受けています。安倍総理が、桜疑惑で、追求されています。この二つ、共通点ありすぎです。どちらも、親分直撃の爆弾、しかもどちらも完全クロ、真っ黒と誰もが内心思っています。

しかし、どちらも、議会の追及に対して、知らぬ存ぜぬを言い張っています。どちらも、民主主義の発達した国でありながら、このままでは、とんでもない無茶クチャがまかり通ってしまいそうです。

しかし、この二つの事件が、似通った経過をたどっているという事実は、注目に値すると思います。
資本主義が発達するほど、巨大なカネ、権力といった闇の部分も拡大し、闇の中で、私たちには見えない力学がはたらくのでしょうか。闇を照らす光の力は、最終的には国民一人一人の、不正を許さない気持ちではないでしょうか。それが、民主主義の力なのでしょう。発達した資本主義の国では、民主主義もまた、より高度化することが、求められているのかもしれません。


2019年11月28日木曜日

自由2

封建時代とは、人間同士が何らかの結合状態であることで、社会は成り立っています。農民は、地域共同体であり、その上には庄屋などがまとめやくとしております。又、身分制度がありますが、この身分は、年貢という強制的収奪を正当化する、装置です。つまり、農民は、家族や一族、地域、身分、等の人間同士の結合が、社会をつくっています。

分業や貨幣経済が浸透することで、人は、所有という名の、財貨と結合をすることで、人間同士の結合状態から、解放されます。例えば、商家で、丁稚小僧になれば、旦那とは、主人-使用人という、お金で結ばれた関係です。他人の世話にならずに生きて行ければ、それだけ、自由の度合いは増えます。市場経済の発達とともに私たちが手にした自由は、「~からの自由」であり、それは尊いものではありますが、同時にそれは、ますますお金に縛られる自由でもあることは、否定できない事実です。商売をする資本もなく、農村を捨て都市にでた人は、自分の身体一つを資本にして、賃労働者として、働くしかありません。

人間は、自由を求めて市場経済というお金の社会をつくりました。しかし、そこで得た自由は、「お金の支配」という高い代償を払った自由なのです。封建時代、ずっぽりと、その社会にはまっていた当時の人々は、それがあたりまえで、自由がないなどと思いませんでした。だから、自由が何かも、わからなかったと思います。それと同じように、私たちも、実は、お金という拘束の世界にはまっていて、お金がもたらす自由を、自由と思い込んでいて、本当の自由とは何かが、分からないでいるのかもしれません。

2019年11月27日水曜日

自由平等友愛の自由

自由は、昔からあったわけでなく、封建時代の終わりに叫ばれ始めたようです。ドイツでは、「都市の空気は自由にする」という諺まで生まれました。自由について、深く調べたわけでもない私ですが、ブログの成り行き上、勝手なことを書かせていただきます。

私は、自由は、私的所有制度と深い関係があるのではないかと、考えております。ある財貨を、「これは私のものだ」という時、近代社会においては、所有権として、神聖なものです。それは、近親者とても、侵害できない、排他的結合の力を所有者にもたらします。

封建時代に、そのような完全な所有は存在しなかったでしょう。武士が、殿様からご褒美にもらった刀を、売って、換金するなどはあり得ないでしょう。日頃、相互に助け合っている百姓が、ある年、自分の農作物がたまたま豊作だからといって、勝手に、余剰の作物を、市場で売ったりしたなら、今までお互い助け合ってきた隣人たちは、怒るでしょう。

逆にいうと、商品交換の市場が浸透するということは、そうした共同体が、崩壊しつつある証拠でもあります。売り買いできるということは、所有権が確立していることを意味します。「これは私のものだ」という排他性は、共同体の紐帯を断ち切る破壊力を持ちます。息子が宝くじで1億円当たって、「これは全部俺のものだ」といったとき、親がそれを容認する、しないに関わらず、親子関係を支えている「家族共同体」は、変質するでしょう。(続く)

2019年11月25日月曜日

平等と嫉妬

嫉妬という心理は、あさましい心根として、ネガティブに見られがちです。しかし、嫉妬も、進化の過程での、フリーライダー防止のため、絶えず平等を追求する努力から生まれた心理ではないでしょうか。だから、例えば、農村社会などの共同体社会では、みんな同じ条件で生活している場合、ある人だけが、急に羽振りがよくなったとすると、それは、無関心でいられないのは、共同体の防衛本能かもしれません。例えば、哲学者三木清の「人生論ノート」では、「嫉妬について」という章で、次のように言っています。


嫉妬は「自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通」で、「平均化を求める傾向」があると言います。

2019年11月24日日曜日

自由平等友愛の平等

冷戦時代から、ポスト冷戦に代わる過程で、平等より、自由の価値が増えたように思います。教育の世界でも、平等な教育は、子供の可能性を抑える悪平等だ、個性をもっと重視すべきだ、といった批判が出ました。世間は豊かになって、平等より、多様性を重んじるようになったともいえます。ただ、自由競争の度が過ぎてしまって、格差が激しくなった現在、再び平等が、重要になりつつあるのではないでしょうか。平等も又人間の普遍的価値として、社会正義を保つうえで、重要な社会基準ではないでしょうか。そして、この平等もまた、その起源をたどると、猿からヒトへの進化と、関係があると、私は考えています。

人類は、共感の心を発展させ、協力集団をつくりながら、敵や困難を乗り越え、進化してきました。その協力集団は、平等が、絶対的重要なルールです。狩りは、みんなが参加する、とった獲物は、みんなで分かち合う。(もちろん、年齢や性別による分業はあるでしょうが)つまり、原始共産制でした。しかし、こうした平等を悪用するズルい人間はいるものです。狩りや、採取をするとき、やっているふりだけして、みんなが見てないところで手を抜く、もらうものはちゃっかり一人前もらう、という手合いです。こういう人を「フリーライダー」と呼ぶそうです。こうしたズルい人間は、協力集団を崩壊させかねません。だから、絶えず、フリーライダーのズルを許さないよう、お互い監視の目を光らせる、つまり、隣人の行動に、絶えず注意が向く、そうした本能が身についたといいます。これが、平等の起源ではないでしょうか。(続く)


2019年11月23日土曜日

友愛2


文明の発達とともに、戦争の規模も拡大して、ついには第一次世界大戦みたいな世界的規模の戦争まで引き起こしました。しかし、それを反省して、国際連盟をつくったり、パリ不戦条約を結んだりもしました。それでも、すぐまた第二次世界大戦を引き起こしました。そこでは、ホロコーストがあり、原爆投下がありました。しかし、それを深く反省するのも又人間です。何度失敗しても、諦めることはけっしてなく、戦争のない、人間が仲良く協力する世界を作り上げたい、それも又、人間が進化の過程で獲得した人類の本性ではないでしょうか。



兵士は、戦場で、殺し合いをするためには、人間性をすてるような激しい訓練をするだろうし、実際、戦場では獣のようにならないと生き残ることは困難なのかもしれません。それでも、本当に人間らしさを捨てることはできないでしょう。かつて、アフリカから奴隷船で拉致誘拐されてきたアフリカの人たちは、いわれもなく、動物以下の扱いを受け、虐待されました。おそらく獣のような凶暴な怒りにとらわれたでしょう。しかし、それでも、人間性を捨て、けだものになりきることは不可能です。



人間らしい心、それは、長い進化の産物であり、深く誰の心にもあるのではないでしょうか。自由平等友愛の「友愛」が普遍的価値であるのは、そうした理由によるのではないでしょうか。そして、人間が人間を求める心、それがあるからこそ、人間はここまで発展してきたのだと思います。

2019年11月22日金曜日

自由平等友愛の友愛

ここ何年か人類学の発展が目覚ましく、人類学の本も、多く読まれているようです。長い間謎だった猿からヒトになる過程がわかり、介在する様々な類人猿の系列が明らかになりつつあるといいます。その背景には、精力的な発掘作業や、古い骨でもDNAが抽出できる技術や、古い骨のから小さい断片から全体像を推定することを可能にする学問の蓄積等々があるようです。

そうしたことから、重要なことが明らかになりつつあります。それは、この猿からヒトへの進化の過程では、心、言語、大きい脳の3つが互いに関係しあいながら、進化してきたということです。人間にしかない「心」は、そうした進化の産物だといいます。

森林での樹上生活から、草原での二足歩行になった時、足も遅く、牙もなく、カギ詰爪もない猿人は、弱者だから、お互い協力することが、生きる術でした。そうした中で、共感する心が進化したといいます。人間は、例えば、拷問みたいに痛めつけられる人を見ると、自分も痛みを受けたかのような苦痛を感じるのは、心理学でも確認されていて、これは、こうした進化由来の人間の本性だといいます。

現在の、核廃絶の運動の背景には、広島長崎の被爆者の話や、悲惨な写真や絵の力が大きいでしょう。これは、つまり、進化の過程で獲得した共感の力が、世界史に影響を及ぼしている、といえるのではないでしょうか。つまり、御先祖様の贈り物です。(続く)

2019年11月20日水曜日

文系と理系2

テレビのニュースなどで、ニュースキャスターは、科学ニュースだと、例えば、ダークマターの話などが話題になると、「むずかしい話ですよね」といい、自分にもよくわからないことを公言して、相手もそうであると決めつけ、かなりはしょった手抜きの説明しかしません。その時、キャスターは、赤ちゃんに語るように、赤ちゃん言葉で、視聴者に語っているのと同じです。

英語版のヤフーニュースや、英字新聞などの科学記事を見ると、そうではありません。頻繁に最先端の科学ニュースが登場しますが、そして、高度な内容を、原理から分かるように、一生懸命説明しています。

この違いはどこからくるのでしょう。文系的教養を知らないと、時に恥ずかしいと思います。例えば、若い女性タレントでも、勝海州が、江戸時代か平安時代か、判別できなければ、ちょっと恥ずかしいでしょう。しかし、原子と分子の違いを知らなくとも、恥ずかしいと思わないのではないでしょうか。しかし、基本知識としての重要性は、後者であることは、明らかです。

私は、人生に意味のある大切な知識は、基本的に面白いし、又本当は難しくない、と信じております。そして、理系の知識は、面白いし、難しくありません。しかし、「難しい理系」という「食わず嫌い」はなかなか消えません。

「難しい理系」に対する恐れは、文系と理系という線を引くことで、解消できます。理系の基本知識がなくても、「私は文系だから」といえば、通用するからです。これが日本です。こうして「私は文系」という逃げ場所は、消えることがありません。これでは、いつまでたっても、科学は万人のものにならず、「変人」のものであり続けるでしょう。

追伸)要するに日本社会全体が、科学を、お客さん扱い、よそ者扱いすることで、自分たちの文化の一部として受け入れようとしていない、といったらちょっと言いすぎでしょうか。

2019年11月19日火曜日

文系と理系

以前、大和市出身のノーベル化学賞の根岸さんが、大和で、凱旋講演をすることがあり、私も、期待して参加しました。しかし、司会の大和在住の確か同級生の方は、「私共凡人には、ちんぷんかんぷんの難しい御研究のようで」との卑屈な紹介のせいかどうか知りませんが、根岸さんは、私が期待した専門の話は何一つされず、思い出話などに終始し、私はいたく失望した記憶があります。

科学にたいし、「難しいもの」「近づきがたいもの」、という恐れの気持ち、これは、非常に根強く、私たちの生活の中に、のこっています。確かに、ノーベル賞の業績など、そのままでは、理科の教師の私でも、ちんぷんかんぷんです。だから、多くの人が、科学には、畏敬や怖れを抱きます。人々と、科学の間には、いつの間にか、深い溝ができてしまっているのです。理系と文系という言葉は、日本独特と聞きますが、その理由の一つは、こうした溝と関係するのではないでしょうか。

「科捜研の女」という、私も好きなテレビ番組があります。その主人公の榊さんは、優れた科学者ですが、周りの空気をまったく読まない変人です。又、物理担当の人は何人か変わりましたが、どの人も、変人です。つまり、優れた理系は、自分たちとは違うのであり、溝の向こうの人であり、通常社会で交わると、変な行動が出てくるに違いない、そんな風に思っている人がおおいのでしょうか、そして、それは、正しいでしょうか。(続く)

2019年11月18日月曜日

野党はだらしないか

バラエティー番組、フジテレビのバイキングで、MCの坂上忍氏が、国民の怒りを代表するかのように、安部政権を痛烈に批判したあと、いっていました。「それにしても、野党がだらしない」からこうなるんだ、と。あたかも、喧嘩両成敗の様に。このように、時の政権批判をしたあとは、必ずその毒を中和し、無毒化することが、今のマスコミで、生き残るために、必要な「忖度」なのでしょう。

確かに、野党は弱すぎる点で、野党にも、責任はあるでしょう。しかし、国会での、安部氏の度重なる疑惑隠しに関しては、ちょっと違うと思います。国会つまり、立法府は、安倍政権という行政に対して、チェックする責務があり、それが、三権分立です。だから、国会議員は政党に関係なく、だれでも、立法(議員)立場から、「おかみ」(行政)をチェックする責務があります。それが、国民に選ばれた代表である「議員様」の基本職務です。

しかも、立法の代表者は最大多数の自民党です。だから自民党議員は率先して、行政の疑惑を正す、立法の側からの責務があるのです。国会とは、野党対与党ではなく、行政VS立法、つまり、お上VS国民代表、それが三権分立の趣旨です。

安倍氏は、いつもいいます。「国会が求めれば私はいつでも説明します」、と。しかし、自民党の妨害によって、それは、実現しないことを十分承知の上でいっているのです。モリカケ問題で、国有地を格安で売却した一大疑獄でも、安部氏が安泰なのは、野党がだらしないからではなく、自民党の妨害で、国会を機能マヒにしたからです。最高裁判所といい、国会と言い、この国の三権分立は、ないに等しい。これで、民主国家か、といいたい。

2019年11月17日日曜日

生き物を大切に

先週のNHKの「ダーウィンが来た」という番組で、都会で、セミが繁栄するわけをいっていました。それは、桜などの街路樹が関係しているといいます。セミは、木の根っこで、数年幼虫として、樹液を吸いながら成長します。しかし、長い幼虫期間は、その分、モグラという天敵にやられるリスクを増大します。しかし、コンクリートだらけの都会にはモグラはおらず、街路樹の根に住むセミの幼虫は安全だというわけです。

自然を壊し、森を破壊する人間は、セミにとって、敵だったはずです。しかし、その敵が作るコンクリートのジャングルが、皮肉にも、セミを助けます。敵といい、味方といいますが、実は、生物は、みな必死で、自分のことだけを考えて生きているにすぎません。共生などといい、生物が助け合っているかのように、思い描くのは、人間の情緒的な思い込みで、生き物の感知する所ではありません。しかし、その結果、不思議にも、自然界は、生態系という見事に調和のとれた、相互依存の世界を形成します。知性と余裕のある人間だけが、全体像を認識することができます。ということは、人間には、生物として、生態系を守る、という重い倫理的責務があるのではないでしょうか。人間も又、生物として必死で、稲を食う昆虫を退治し、食料として、魚や獣を食べます。しかし、生きるために必要な場合以外に、動植物を殺してはいけない、これは、昔からある、「汝殺すなかれ」と同じく重く大事な基本倫理ではないでしょうか。それは、仏教の教えとか、動物愛好家だけのものではなく、もっと深い、全生物の代表であるホモサピエンスとしての、普遍的道徳基準ではないかと思います。小学校の道徳教育の本の、第1ページの書くべきです。

「むやみに、生き物を殺してはいけない」

2019年11月16日土曜日

アマゾン3

どれほど大型のディスカウントショップでも、店の大きさには、限度がありますから、陳列する商品の数には限度があります。しかし、ネット上の「ネットショップ」は、全国の商品の品ぞろえを、たちどころに眺めることができます。これでは、競争になりません。家電や、スポーツ用品、衣類、玩具類、本などは、そういう点で、ネットが断然有利に思われます。だとすると、日本でも、「アマゾン効果」がじわじわと現れるのかもしれません。

今後、ドローンなどを利用すると、状況がまた変化するのか、へき地や山間部などの配送には、確かに便利でしょうから、その面では、アマゾンは更に拡大するかもしれません。又、アマゾン等の巨大デジタル産業業GAFA達は、タックスヘイブン、つまり税の安い国へ、利潤を移転するという手法で、税金も少ししか納めていない点でも、競争に有利です。

大型店舗をはじめ、店は、商品購入の場所にとどまらず、街のお祭りや行事の重要な参画者として、地域コミュニティの一部です。昔、大型店舗の進出によって、地域商店が次々消えていったように、今度は、その大型店舗が、アマゾンによって、次々消えて行く。その後の町の風景は、どうなるのでしょう。そういえば、SF映画に出てくる町は、どれも、地域コミュニティなどない殺風景な街の上空を、ドローンみたいなのが飛んでいます。それを寒々とした風景と感じる私は、時代遅れの人間になりつつあるのでしょうか。

2019年11月15日金曜日

アマゾン2

私も、くやしいが、便利さに負け、アマゾンを使います。ネットで、あらゆる商品が、詳しく眺めたり、値段を比較したりして、クリック一つで、購入できる、一昔前なら、夢のような話です。このような、単純なシステムを裏で支えているのは、巨大で複雑な技術のシステムではないでしょうか。次は私の勝手な想像です。

まず、こうしたネットの注文は、注文クリックした時点で、生産元に、自動注文がなされるように、アマゾンのシステムができている。注文を受けた商品の販売主は、搬送地ごとに、各地域にある巨大な倉庫に、商品を搬送します。倉庫には、日本全国各地からきた商品が集積されます。そこでは、コンピューターとベルトコンベヤーからなる、巨大な装置があり、更に狭い搬送地域ごとに、仕分け作業を行います。それは、包装箱についているバーコードかなんかの目印によって、機械が夜昼関係なく自動的に行います。仕分けされた商品は、各搬送地を担当する運送会社に引き渡されます。

だから、各地域に巨大な倉庫兼仕分け装置があり、それだけでも、巨大な投資を必要とします。その代わり、流通コストは、従来の問屋や仲買を通すシステムに比べ、下げることが可能でしょう。又、アマゾンの立場は、各商品生産者より、強いですから、有利な価格交渉ができるでしょう。(それは、アマゾンのサイトでの価格表示で反映されます)、アマゾンは便利さだけでなく、こうした価格競争を通じて、のし上がってきたのだと思います。また、倉庫では相当きつい労働があり、低賃金だと、聞きます。(続く)

2019年11月14日木曜日

アマゾン効果

アメリカでは、今、通信販売大手アマゾンのせいで、既存のディスカウントショップやショッピングセンターが、衰退の危機においやられている、ということです。大型書店、大型スポーツ店、アパレル、家電、玩具などの量販店が、次々経営破綻していて、それには、アマゾンエフェクト(アマゾン効果)という名前までできたといいます。アマゾンやウォールマートという巨人だけがのこり、後には何ものこらないことから、「焼き畑商業」という言葉すらあるといいます。

しかし、これは、他人事ではないと思います。人口20万位の私の町でも、ヤマダ電機や、ダイクマといった家電量販店や、ディスカウントショップが撤退しました。原因は知りませんが、ネット通販の影響も相当あるように思います。

昔、全国の地方都市で、似たようなことが起きました。当時、規制緩和の大合唱の中で、大型店の地方展開を認める、大店法が通過すると、全国にニョキニョキと、大型ショッピングモールができ、たちどころに大昔からあった地方の老舗の店は倒産し、町はさびれ、シャッター街に変貌しました。一方で、消費者は、大きいきれいな店で、多様な商品を、ゆっくり眺め、安い価格で買う、そうした利便性を得たことも確かでしょう。背景には、車社会やレジの導入など、技術の進展がもたらした、流通の大変動があったと思います。

そして、今、ネット社会という新たな時代が、再び、流通の世界に、大変動をもたらそうとしています。(続く)

2019年11月13日水曜日

善悪二分法的世界観

昔、小さいころ、よく映画を見ました。西部劇と時代劇は、悪い奴と良い人が、はっきりしていたので、幼い頭脳にも理解できました。しかし、現代劇は、善悪二分法の世界でないので、よくわからず、そばにいた兄や父に、「あいつは悪い方なのか」などとしつこく尋ねて、うるさがられました。

米ソ冷戦時代は、世の中は、進歩派左派と保守派右派が割と明確で、リベラル左派のつもりの自分には、進歩派左派は、善と思われ、世の中は単純明快でした。しかし、ソ連が崩壊して、二分法が成り立たない世界になり、途端に世界がわかりにくくなりました。たとえば、ヨーロッパ連合EUひとつとっても、「あいつはいい方なのか」と迷ったりしました。

しかし、最近又世の中が、再びわかりやすくなりつつあるのではないでしょうか。

いい方 格差に反対し価値観の多様化を尊重、核廃絶や地球温暖化パリ条約の側に立つ、難民問題などで、国連など国際協調主義に立つ(多くの途上国、ASEAN、先進国の良識派)、日本でいえば、護憲派、野党連合、

悪い方、それらを妨害したり、反対する(トランプ派アメリカ、ロシアや中国の覇権主義派、ブラジルその他のトランプ派、)、日本でいえば、安部政権与党

2019年11月12日火曜日

南北戦争と明治維新

アメリカから黒船が来て、強制的に開国をせまり、そのあと、日本中、市民革命みたいな大変な状態になり、結局明治政府が生まれました。

しかし、この当時開国をせまった当のアメリカも、南北戦争の時代だったのです。うかつな私は、このことを、最近「南北戦争の時代」(岩波新書)という本で、気づかされました。南北戦争は、1861~ 1865で、明治維新は1868 年、ペリーが来たのは、1853年、 1854年です。

つまりこういうことです。アメリカはイギリスから独立したものの、国としてのまとまりは弱く、奴隷制度に固執する南部諸州は、リンカーン大統領のアメリカ合衆国に反旗を翻し、アメリカ連合国を宣言し、ジェファーソンを大統領に選びました。南北戦争は、アメリカの悲惨な内戦です。日本も、戊辰戦争をいう内戦を経て、近代化しましたが、アメリカも内戦を経て、本当の意味での、近代国家になりました。

そうしてみると、アメリカが、身近に見えてきます。明治維新前、日本では、さむらいが刀を振り回していたころ、アメリカでも、内戦前、ガンマンは拳銃を腰にぶら下げて闊歩し、OK牧場の決闘などをやっていたわけでです。ただ、違うのは、アメリカの内戦では、リンカーン側、つまり進歩派が勝ったのにたいして、日本の明治維新では、それを後押しした、民衆や自由民権派は、敗北し、薩長などの保守派が勝利して、保守派の国家として明治政府となったことです。

それから、150年、アメリカでは、まだ黒人差別は残っています。そして、日本でも、安倍政権のような、明治政府を賛美する保守派が、残っています。どちらも、昔の内戦の名残が、しぶとく尾を引いているという点では、似ているのかもしれません。

2019年11月11日月曜日

季節の変わり目

人はよく、どの季節がすきか、などという。しかし、私は、季節の境目が好きだ。確か、11月8日は、立冬。秋分の日と冬至の、ちょうど中間点で、秋と冬が、混ざっている。菊はもう終わっただろう、今年はあの香りに接することがないままに終わってしまった。そろそろ、公園の山茶花が咲き始めるだろうか。そんなことを思うのが今だ。秋と冬の美しい混成合唱。この光、これが11月11日の光だ、この風、これが11月11日の風だ。そして、更に思う、これが、自分の75歳と37日目の日だ、これが2019年11月11日だ。

2019年11月10日日曜日

政府の芸術への干渉

芸術展示の、後援を取り消すという手段で、芸術に政治が干渉するという、事件が、愛知トリエンナーレ展、川崎のしんゆり映画祭と続きましたが、類似のパターンが、また繰り返されました。今度は、オーストリアで。

日本とオーストリアの国交樹立150年を記念する芸術展は9月からウィーンで開かれていているそうです。しかし、ここでは、安倍総理大臣にふんした人物が歴史問題などをめぐる演説を行う動画や原発事故をテーマにした作品、昭和天皇とマッカーサーが並ぶ写真に似せた作品などが展示され、外務省は先月30日になって記念事業としての公認を取り消しましたといいます。


庶民が、日々の生活の中で、経験する怒りや、やるせなさを、又は、政治に対する怒りを、くみ上げて、芸術的昇華を通じて、笑いや、作品にする、これは、芸術の、本来的姿であり、その作品がいいかどうかは、芸術として、見る人が評価するでしょう。それすら許さず、いちいち目くじらを立てて、作品を展示することすら妨害する、これでは、江戸時代と同じです。

批判風刺にさらされる自分の姿の醜悪さに耐えられず、権力をもって、応えようとしていますが、そこはこらえて、そこから国民の声を読み取ろうとする、それが権力を持つ者の、あるべき態度ではないでしょうか。

2019年11月9日土曜日

平和的生存権

2016年の安保法(集団的自衛権の行使を認めた安全保障関連法)の施行により、憲法前文にある平和に生きる権利(平和的生存権)や人格権が侵害されて精神的苦痛を受けたとして、市民ら約1550人が国に1人10万円の賠償を求めていました。しかし、東京地裁は、安保関連法が合憲か違憲かは判断しないまま、原告の請求を退ける判決を言い渡しました。
判決によると、この法律作成が、「原告らの生命安全に危険をもたらす行為とはいいがたい」といっています。そうでしょうか。この法律に対して、多くの市民、母親、若者らは、戦争が近づいてくるという不安と危機感をもって、抗議の声をあげました。裁判所の言う通りなら、あの危機意識は嘘だったのでしょうか。
又、裁判はこうも言っています。
「平和とは抽象的な概念で、・・・平和的生存権は国民に保障された具体的な権利とはいえない」そうでしょうか。それなら、憲法の前文(下記)の次の文章は、一体、何のためにあるのでしょいうか、ただのお飾りなのでしょうか。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」」れらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
この裁判は、これから、まだまだ各地で、続きます。一時の激情で、世の中は変わらない、長い地道な努力が必要です。

 

2019年11月8日金曜日

武器見本市を許すな

以前なら考えられなかった武器の見本市が、日本で、当たり前になりつつあります。戦争の手段である武器は、憲法9条に反するものです。だから、当然の帰結として、武器を作らず、持たず、輸出せずの、「武器輸出三原則」(1967年)が定められました。

しかし、これらは、安倍内閣が2014年に「防衛装備移転三原則」を定めたことで骨抜きとなりました。そればかりか、日本は武器輸出国として、武器製造や輸出を成長産業にしようとしています。こうした動きは、大学に軍事研究をさせようとする動きと連動した、危険な動きです。武器を「防衛装備品」などとオブラートに包んだり、「オリンピックに向けたテロ対策装備品」など、あの手この手で、安倍政権は、日本を軍事化させようとしています。そういう安倍氏にとって、今の憲法は、「時代に合わない」ものなのでしょう。


武器の見本市は、日本の軍事化の国際的宣言、宣伝の場でもあります。今年だけでも、幕張メッセで、6月と11月に、開催され、又されようとしています。二つの見本市は、次のようなものらしいです。ここは、悲惨な戦争が、金儲けのチャンスと考える、モラルなき世界です。

MAST Asia 
6月17日から19日までの三日間、千葉県の幕張メッセで開催されました。イギリス企業による国際的な武器見本市で日本国内で3回目です。防衛省を始めとした日本の省庁が後援として名を連ね、前回2017年の開催時には日本企業13社も出展しています。

DSEI Japan
11月18日から20日まで幕張メッセで開催されます。隔年ロンドンで開催されているDSEIの主催が、日本で、「DSEI Japan」として開催します。日本において初めて開催され、陸・海・空・セキュリティなど国家安全保障に関するすべての領域をカバーします。







2019年11月7日木曜日

軍事基地は時代遅れ


現在アメリカは、世界80の国に、800か所の軍事基地を配備しているといいます(なお付け加えれば、基地の約6割は、日、独、伊の敗戦3国にあるそうです)大変なお金がかかるでしょう。しかも、財政が苦しい状態では、それが果たして採算がとれる支出なのかどうか、トランプ氏ならずとも、気になるでしょう。

共産圏の拡大という恐怖が消え、無限の経済力は、過去のものになった今、世界の軍事基地はますます時代遅れとなりつつあるのではないか、そんな希望をかすかにではありますが、感じます。

一方、世界は、もう少しで、核禁止条約が、批准国50か国に達して、発効しようとしています。アメリカでは、民主党左派が勢いを増し、例えば、バーニーサンダース氏は、2002年のイラク侵攻の時にも、勇敢に反対票を入れた平和主義者です。もし、左派がトランプ氏を破り、大統領になれば、世界は大きく変わる可能性があります。

トランプ氏のアメリカ第一主義から、私は、そんな希望を感じます。

2019年11月6日水曜日

トランプ氏とアメリカの孤立主義

トランプ大統領が、またも、世界に恥をさらしました。一年後の11月4日を期して、地球温暖化パリ条約を脱退すると、通告したといいます。ここで、私は、温暖化の問題ではなく、アメリカの孤立主義を考えようと思います。トランプ氏のアメリカ第一主義は言い換えれば、アメリカは世界の指導者であるより、自分の利害を優先する、というメッセージともとれるからです。更に言えば、アメリカは、国内の格差や中国との競争などで、もはや、自分のことで、手一杯の状態であるという、アメリカ資本主義の弱体化、のあらわれかもしれません。

アメリカは、モンロー宣言でも有名なように、もともと、孤立主義の傾向を持っています。資源豊かなアメリカは、ヨーロッパの複雑な利害に巻き込まれる必要など何もなく、悠々と単独で、繁栄を楽しむことができましたし、大西洋という防壁があるから、軍事的心配もありませんでした。だから、第一次世界大戦も、しぶしぶ参加したし、正義感の強いルーズベルトが、国際連盟を提案した時も、議会が反対して、大統領のメンツをつぶしました。第二次世界大戦ご、アメリカが、世界の指導者みたいになったのは、そうしないと、共産国ソ連の勢力が、拡大する恐怖があったからです。

今、ソ連は消滅しましたから、アメリカは、わざわざ世界に出向いて、何かをする必然性はなくなりました。こう考えると、トランプ氏の孤立主義には、私は、もっと慎重に評価しなくてはならない何かがあるかもしれない、とも思えるのです。(続く)

2019年11月5日火曜日

大学入試英語試験の民間委託

文科省は、来年度から、今の大学入試センター試験に代わって、「大学入学共通テスト」を新たに実施します。そして、英語の試験は、ベネッセや日本英語検定協会など6つの事業者による検定試験の予定でした。しかし、色々な反対や不安、それに加えて萩生田大臣の「身の丈にあわせて」という発言が問題となって、民間英語試験は中止に追い込まれました。なぜ、政府は、このような拙速な失敗をしたのでしょう。私は、この背景には、財界政界が盛んに喧伝する、ソサイエティ5.0 があるのでは、と考えています。
政府は、来年から始ます5G 通信技術に合わせた、様々な先端技術を、教育にも取り入れようとしています。個人の学習などのビッグデーターを活用することで、将来、教室と黒板に頼る集団学習から、パソコンやタブレットによる「個別最適化」された学習環境が可能となるかもしれない、というわけです。こうしたことを実現するためには、教育の仕事は、学校や教師だけでなく、企業や、技術者の協力が不可欠でしょう。様々な形で、教育の民営化が促進されるでしょう。すると、教育は、企業にとって、大きな儲けの場となるのです。英語の試験の民営化は、そうした教育の民営化の大きな突破口になるでしょう。
英語の民間試験の拙速な導入の背景には、こうしたソサイエティ5.0 で熱に浮かされた政財界があるのでは、だとしたら、それはそれで、きちんと議論すべき重要なことであり、なし崩し的なやり方は、許されません。

2019年11月4日月曜日

アイヌ民族3

現在、政府は、アイヌ文化に関する巨大な博物館を、北海道の白老町建設しています。丁度オリンピックの直前、20120年4月にオープンと言いますから、北海道観光の新たな名所となるでしょう。しかも、その趣旨には、「・・・我が国の貴重な文化でありながら存立の危機にあるアイヌ文化を復興・発展させる拠点として、また、我が国が将来に向けて、先住民族の尊厳を尊重し差別のない多様で豊かな文化を持つ活力ある社会を築いていくための象徴として、・・・」と、美しい言葉が並んでいます。

通称「ウポポ」という愛称であるという、200億円をかけた、この国立の「民族共生博物館」は、アイヌの人たちに分断をもたらしている、という記事を、ジャパンタイムズで知りました。

それは、民族意識に目覚めたアイヌの人にとっては、素直に喜べないようです。なぜか。それは、次の現実があるからです。2017年の調査で、アイヌは13000人だそうですが、本当はもっと沢山いるということです。それらの人の大学進学率は、日本人全体の半分で、収入も大幅に少ない。日本人はアイヌを受け入れないから、差別を恐れるアイヌの人は、アイヌであることを隠して子供にも教えない、自分がアイヌであることも知らない、そうした「サイレントアイヌ」が多数いるといいます。そして、今まで奪われた歴史に対する謝罪も、補償もない、そういう国が、突然に、「民族の共生」と称して、博物館をつくり、そこで、アイヌ文化を展示しても、アイヌの人にとって、観光の道具にされている、としか思えないのは当然ではないでしょうか。そこで、観光客の前で、アイヌの唄や踊りを演じるアイヌの姿は、私は、想像するだけで、哀れをとおりこして、怒りを覚えます。

もちろん、アイヌの人の中にも、民族博物館に、経済的メリットがあるということで、賛成の人もいるといいます。そこには、貧しい状況に置かれた人たちをお金の力で、説き伏せようとする、あの原発と同じ構図と、住民の分断があります。









2019年11月3日日曜日

万歳三唱

先日、即位の礼で、安部氏が天皇の前で、天皇陛下バンザイをしていた。何か戦前に戻った気がしました。

万歳の風習は、大日本帝国憲法発布の1889年2月11日の頃が契機のようです。永井荷風が「国民が国家に対して万歳と呼ぶ言葉を覚えたのも、確かこの時から始まったと記憶している」と書いているそうです。当時、日清戦争前夜で、ナショナリズムが高揚する時代だったのでしょう。歴史家牧原憲夫氏によると、「万歳、日の丸、君が代、御真影」が4点セットだったといいます。これらは、明治政府が目指していた天皇制強権国家へ、国民を誘導するための装置だったのです。

漱石は、こうした国家主義的風潮が大嫌いでした。「趣味の遺伝」という短編小説には、次のような文があります。(日露戦争祝賀の風景の中で)

「余も――妙な話しだが実は万歳を唱えた事は生れてから今日こんにちに至るまで一度もないのである。万歳を唱えてはならんと誰からも申しつけられたおぼえは毛頭ない。また万歳を唱えてはるいと云う主義でも無論ない。しかしその場に臨んでいざ大声たいせいを発しようとすると、いけない。小石で気管をふさがれたようでどうしても万歳が咽喉笛のどぶえへこびりついたぎり動かない。どんなに奮発しても出てくれない。」

漱石は、国家だけでなく、権威が嫌いでした。ある時、時の総理大臣西園寺公望が主催したサロン会に、招待されたとき、次の句を書いて、出席を断ったそうです。それも、丁重な手紙などでなく、葉書1枚で。

時鳥(ホトトギス) 厠(かわや)半ばに でかねたり

(ホトトギスがないているのに、用をたしているから 出て行って聞くことができない)




2019年11月2日土曜日

アイヌ民族2

明治時代になって、蝦夷と呼ばれた現北海道は、それ以前アイヌの地でした。そこで、鮭や熊を生活の糧として、生きていたアイヌの人たちは、アイヌの言葉を捨て日本語を強制され、名前も日本式に変えることを強いられ、狭い領地に押し込められました、それが同化政策だと思います。私は、アイヌのことは、ほとんど知りません。最近、「ゴールデンカムイ」という漫画があると知り、少しだけ読んだくらいです。しかし、同化政策が、流血の暴力を伴った、いかに残虐なものであったかは、十分想像できます。

現在、アイヌの民族としての運動が、始まっています。アイヌウタリ協会は、「アイヌ民族に関する法律案」を提案しておりますが、それによると、この法案は「日本国に固有の文化を持ったアイヌ民族が存在することを認め、日本国憲法のもとに、民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されることを目的とする」としています。

現在政府は、時代の流れに押されて、表面的にはアイヌ政策を改善していますが、まだまだ不十分です。十分な改善は、韓国に対してと同様に、過去の誤りに対する謝罪抜きにはありえないのではないでしょか。それをしないから、事態はなかなか前に進みません。ドイツ大統領ワイゼッカー氏の、有名な演説の言葉、「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目になる」は、ここでも当てはまります。

2019年11月1日金曜日

アイヌ民族

日本にも、少数民族アイヌがいます。先日Eテレで、題名も忘れましたが、アイヌの人たちの生活振りを紹介する番組がありました。それによると、今までの同化政策のせいで、アイヌの末裔ですら、自分がアイヌであるというアイデンティはほとんどないようです。しかし、それに疑問を感じて、アイヌのことをもっと知ろうとする若者が紹介されていました。ある人は、アイヌは、見えない、透明人間のようだ、といって、大学院で、アイヌの研究をしていました。また、ある人は、今アイヌ語を勉強していました。またその父親は、祖父ら先祖の願いをかなえるべく、日本式の石の墓を掘り起こし、アイヌ式の木の墓に、墓移しをしていました。

アイヌの同化政策は、明治時代の「北海道旧土人保護法」という屈辱的な法律によるもので、1987年にようやく廃止になりました。その後色々あり、今年4月、「アイヌ施策推進法」が施行されました。しかし、問題の解決はまだまだのようです。その証拠に、政府は決して、今までの政策の誤りを認めておりません。Eテレの番組で、象徴的なシーンがありました。北海道大学の人類学の研究者が、かつて、人類学研究資料として、墓の盗掘で入手したアイヌ人の骸骨を、返還するシーンがあり、アイヌ側が、返還だけでなく、謝罪を要求したところ頑として、謝罪しませんでした。おそらく、賠償などの問題に発展することを恐れる政府の意向がはたらいているのでしょう。(続く)

追伸)当時、アイヌの伝統的埋葬は、土葬だったので、墓を掘れば、骸骨が入手できました。