安部氏ら民族派は、日本を取り戻せとか、自主憲法制定などというが、対米従属については、けっして何も言わない。美しい日本を賛美し、天皇のいる誇り高い民族を語る人たちが、植民地同然の地位協定に我慢できるのはなぜだろう。高額な「思いやり予算」をふんだくられているのに、トランプ氏に、日本は安保にただ乗りしているなどと、勝手放題言われて怒らないのはなぜだろう。これは、よく考えると、説明を要する不思議なことだ。不勉強な私は、その説明を誰かから聞いたことがないので、勝手に思いついたのが次の仮説である。
日本人が、中国という文化的先進国の影響を相対化して、自分の民族に目覚めたのは、江戸時代の賀茂真淵ら国学であるという。かれらは、それまで武士の道徳の基礎であった、朱子学など儒教系の中国由来の学問を、細かいことをあれこれいう「こざかしい」学問であり、もっと伸びやかな日本古来の万葉時代を賞賛したという。こうした復古主義は、その後の明治維新政府の、王政復古イデオロギーの基礎となった。
それ以後、日本は、西洋に追い付くため、西洋文明べったりとなった。そうした軽薄な西洋べったりを苦々しく思っていたのが漱石である。かれは、「日本には富士山以外に自慢するものが何もない」といい、「日本はこのままでは滅びる」といった。
漱石以後、まじめに、西洋文明を批判的に総括して、日本のアイデンティテイを確立しようとした日本人を私は知らない。だから、今も日本は、西欧文明から「乳離れ」していない。だから、アジアの人々にはえばり散らすが、欧米に対しては、本質的に卑屈である。その証拠が、安部氏ら民族派が、対米従属状態に平気であることだ。そう考えると、すべてつじつまが合う、ように見えるのだが、どうだろう。
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